5話 クリムゾン・ダメージ

 水の中を走っているようだった。

 重たい水がまといつき、エリサは浅い呼吸しかできない。

 軟禁場所から抜け出したのに息苦しかった。耳も膜が張ったみたいに音がくぐもって聞こえる。汗が浮かんでいるのに指先が冷たく痺れ、気持ち悪かった。

 身体を動かすことが好きで、勤めるようになってからも軽いジョギングを続けていた。

 多少なりともスタミナがあるはずなのに、足が思うように動いてくれない。いつものように走れないことが、もどかしかった。

 走る先に電話がある。これでネヴァを助けることができる——

 ゴールが見えてきているのに、前に進んでいる気がせず、何もないところでつまずいてしまった。

 一度膝が折れると身体が動かなくなった。

 先ほど見た光景——広田に拳を振るうネヴァの姿が脳裏に再現される。

 初めて見た気がしなかった。

 そんなはずはないと思い直す。人に手をあげるどころか、ネヴァが声を荒げて怒る姿すら見たことがなかった。

 家族ぐるみで付き合いを深めるのが<トラスコ・グループ>だったから、まだ子どものエリサも社員たちと顔を合わせていた。

 ただ、そのなかにネヴァはいなかった。海外出張が多い購買部調達チームは、欠席していることが多かったからだ。

 ネヴァが異動になったのは、エリサが両親を亡くしてしばらくしてからで、そこから顔を会わせる機会が増えた。

「増えた」ということは、異動になってからネヴァと初めて会ったのではなく……

 じゃあ、いつだった?

 どの時点の昔から、ネヴァを知っているのか?

 天と地がぐるぐる回る。頭がぐらついて、起きているのか横たわっているのか、わからなくなってくる。

「……サ、エリ……あたしがわかる……」

 誰かの声が、流れていきそうな意識を引き止めてくれる。

 エリサは強く目蓋を閉じる。意識を醒まそうと思い切り開いた。

「……さしてごめん。どない……ほしい?」

 こっちだ。

 声が聞こえてくる、こちらの世界が今いる本当の世界だ。

 なのに目に入るのは深い赤色だった。

 見たくない。目を閉じる。

 瞳で見なくても記憶で見せられる。

 子ども部屋のドアを開けて目に飛び込んできたのは、深紅色。

 そののなかに倒れているのは父——文夫だ。弛緩してピクリとも動かない身体が仰向けになり、顎を持ち上げられた口が大きく開いていた。

 口の中から、紙がはみ出ている。

 紙幣だった。

 組織の金を横領した裏切り者として殺されたモラーノ文夫の死体の口には、紙幣が突っ込まれていた。

 エメリナの姿を探してリビングに駆け込む。

 クリムゾン——強烈な深紅色があたりを満たしていた。

 エリサは混乱する。いつもとまったく違う光景に、どこにいるのかわからなくなる。

 動きまわる人影がふたつあった。その手元に視線が吸いよせられる。

 鈍く光を反射しているのは、ナイフ。それぞれが握っている。

 そして、どちらも知っている人。ひとりは……

 ネヴァだ。

 ただならぬ様相を呈していた。

 ふたりの間にあるのは、ふれると手が焼かれそうな剥き出しの憎悪。激しい敵意。

 ふたりがぶつかり合う鈍く重い音に、時折り混ざる耳障りな金属音。

 そのそば、深紅色がひろがる床に倒れているのは、エメリナだった。

 動けなかった。目まぐるしく動くふたりが阻んで、エメリナの側にいけない。

 エメリナが倒れているのに、どううしてネヴァは助けてくれないのか。

 目にはいっていない……ふたりであそんでる……

 だからエメリナがたおれているのはネヴァのせい……

 支離滅裂な断片が頭に浮かんだ。意味をなさない言葉がひしめきあう。エリサは考えられなくなる。

 部屋の中がぐにゃりと歪んだ。

 視界がぐらりと揺れる。

 倒れそうになったエリサを低くて静かな声がささえた。

 唄声だった。

 エメリナがいつも唄ってくれた、ベッドでいつも聞いていた唄。

 歌詞がやわらかい毛布になってエリサをつつみこむ。やわらかいクリームイエローで満たされ、身体がふわりと浮かぶ。

 怖い唄なのに、怖くなくなった。

 怖くなくなったのは……が……

 ぼんやりしたシルエットがうかぶ。あともう少しで見えそうなとき、堕ちる感覚。

 鉛が流れ込んできたように身体が怠くなった。薄い闇の中にともっていた淡い暖色が消えた。

 かわって滲み出てくる深紅色。広がるとともに色味も変わっていく。

 深紅色から暗赤色に。

 そこから褐色になる。

 さらに緑褐色に変化して、灰色の幕が重なってきた。立っていられなくなる。

 身体の急激な混乱は、悪いことじゃないのかもしれなかった。大きなショックを受けた当然の反応を身体があらわしていて……

 誰かが耳元で叫んでいた。

 エメリナ……じゃない。たぶん、クドー。

 ぼやけた音で聞こえてくるので、はっきりとは聞き取れない。ただ、心配してくれている様子は伝わってきた。

 倒れても支えてくれる人がいるから、身体も安心して倒れようとする。

 ひとりになるのは怖い。大人になっても、それは変わらなかった。そばにいてほしくて、エリサからも声をあげた。

「どこにも……かないで……ひとりは……」

 途切れてしまう言葉でも、あきらめずに声を出そうとした。



「おるよ。側におるから」

 クドーは、ひざまずいてエリサに声をかけ続けていた。

 荒く不規則だったエリサの呼吸が、少し落ち着いてくる。四つん這いのように俯いていた上体をゆるゆると起こすと、クドーに目を合わせてきた。

「苦しいとこは? どうするんが楽になれそう?」

「なんていうか……」

 意識が先ほどよりはしっかりしてきたが、目を閉じたエリサの表情にふたたび苦悶がうかんだ。

「動け……ないみたい。やっぱ、まだ身体がヘン……」

「助けてあげられんで、ごめん。もうちょっとだけ辛抱して」

 エリサをこの状況から救うためには、まず危険の排除が必要だった。

 クドーは振り向きざま、ニーリング片膝撃ちの姿勢をとる。ハンドガンを照準、警告の大声をあげた。

「警察! そこで止まれ、手のひらを開いて両手をあげろ!」 

 視線と銃口を真っ直ぐむけた先で、追いかけてきた足音がとまる。

 尾形が、その顔に怒気をはりつかせつつも指示に従った。周囲に視線をやり、人影がないことを確かめてからから抑えた声で言った。

「バッチナンバー6452。この意味がわかるなら、余計なことをするな」

 見下ろしてくる尾形に、クドーは銃口を下げないまま応えた。

「覆面警官やて言いたいん? けど、そのバッチナンバーがほんまもんなんか、こっちは確かめようがあらへん。あんたの指示に従う義務はないで」

 とはいっても、尾形が警官である確信はあった。

 クドーのデイパックをチェックしたとき、ネックレスが入ったエビデンス袋を見逃し、ボディチェックもしなかったのは、あとの取引をスムーズに行わせるためだ。

 警官が来たことでおこる騒ぎを避けるために、バッチやIDを

 警官だと尾形が明かし、共同で進めることもできた。しかし、警官としての力量がわからない相手と繊細な捜査はできないし、捜査の経験が浅い制服警官では、ささいなミスでバレる危険もある。

 覆面捜査を徹底させていたといえるが、あくまで想定でしかない。クドーにしても、正体がはっきりわからない相手の言葉を鵜呑みにできなかった。

 指示をはねつけるクドーの応えに、尾形が舌打ちした。

「勝手に小物を逮捕して終わりにするなと言ってるんだ。大局をみろ」

「クスリをこのまま流して、大元を叩くんやろ?」

「わかっているなら四の五の言わずに従え」

「承知しとって従わへん訳をちょっとは考えてみいや。答えを端的に言うとな——」

 成果しか見ていない尾形を、怒りの色をふくんだ大きな瞳が射抜いた。

「犠牲ありきの大局なんか、知るか! や」

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