4話 恋か遺恨か

 市内最大の繁華街ミナミには、飲食店舗と屋台が密集している。観光客はもちろん、地元住民の需要も多いからだ。

 狭小賃貸でキッチンがない家が少なくないし、安い屋台があれば、忙しい合間に無理に食事をつくることもない。子どもがいる家庭でも、三食とも屋台はめずらしいことではなかった。

 食事だけでなく、喫茶や甘味まで屋台で間に合うのもミナミならでは。そうした飲食店舗におろす食品製造関連業者が、ミナミやその周辺に集まっていた。

 さらにその周縁には、人と情報が集まることから、企業の支社や事業所が多くある。エリサが間借りしている社屋は、そのエリアにあった。

 日中は多くの勤め人が集まっていても、夜間になると潮が引いたように少なくなる。幹線道路があるほうから、車のエンジン音が流れてくる以外は静かな場所だった。

 人の往来もないなかで、公衆電話を目指すふたりの靴音が響く。

 目標まで一〇〇メートルを切ったかというところで、エリサが足をもつれさせた。

「急かして、ごめん。しんどかったよな。ケガしてへん?」

 クドーは転んだエリサを助け起こそうとして、その手の冷たさに迷う。

 走れる容態ではなかった。

 仕事を終えたあとに監禁され、疲労とストレスを重ねていた。あのまま家にいるには難しい状況だったとはいえ、走らせて限界を超えてしまったかもしれない。

 周囲を見回す。銀行の事務センターと、学校のフェンスに挟まれた場所で、誰も通りかからない。駆け込める人家もなかった。

 クドーが担当する警らエリアでは、人間の数だけトラブルが起きて翻弄される。

 その代わりというのもなんだが、時間に関わりなく誰かがいて、助けを求めれば応えてくれる人がいた。気軽に電話を借りることもできる。そんな普段の状況とはまったく違っていた。

 荒い呼吸を繰り返しているエリサに訊いた。

「無理なこと訊くけど、動けそう?」

 エリサの応答はなかった。固く目蓋を閉じ、肩を大きく上下させるばかりで、クドーの声が聞こえているのかも疑わしい。

 繁華街でなくとも、南区は治安がいいとはいえない。

 あともう少しのわずかな距離とはいえ、この場にエリサを残していくことに躊躇してしまう。

 逡巡するうち、忙しない足音が近づいてきた。

     


 ——「104」

 交野のポケットベルの画面に出たのは、キャンセルの連絡だった。

 やっと追いつこうとしていた仇敵の背中が、ポケベル画面の数字ひとつで、また遠のく。

 しかし、このまま北辻アンロソ・ネヴァを見送る気にはなれない。幹線道路の車の列にむかって、もう一度手をあげた。

 呑んで終電を逃した客がタクシーにむらがる時間帯だ。通りがかるタクシーの表示版は「賃走」や「迎車」ばかりで、なかなかつかまらない。

 拾う場所をかえようかと思った矢先、やっと「割増」の表示を出している黒塗りタクシーをつかまえた。

 後部シートに乗り込み、行き先を告げる。白髪混じりの男性運転手は、交野を一瞥いちべつしただけで、返事もせずに走り出した。

「そこ、左折じゃなくて直進」

 距離を稼ぐ遠回りをしようとした運転手に、すかさず指示をだした。

「はいはい、すんまへんなあ。疲れてるよって、ついうっかり」

 面倒臭そうに言葉だけの謝罪をした。

 ハズレの運転手を拾ってしまったが、乗り換えているヒマはない。そのまま黙っていた。

 運転手が横柄な態度をとるのは、客を見てのことでもある。起き抜けで飛び出してきた交野の身なりは、みすぼらしいものだった。

 髪は手櫛で整えただけ。シャツとスラックスは、実用一点張りの着古したもの。しかも、目の前にあった脱ぎっぱなしを着てきたから、シワが残ったままだ。

 何より暴力を生業としていながら、交野の見た目には厳つさがなかった。

 平均をやや上回る程度の身長しかなく、鍛えた身体も服を着ているぶんにはわからない。目つきだけは隠しきれない剣呑さを含んでいたが、暗い車中では気づかれなかった。

「お客さん、こんな夜中にどこ行くんや? 愛人に会いにいう感じやないよなあ。子づくりする相手もおらなさそうやし」

 自分で言って、自分で嗤った。

 内装フロント部には乗務員証があり、名前も会社も客に見えるように提示されている。それでもこういった不躾な態度を見せるのは、会社にクレームを入れそうにない客を選んでやっているからだ。

 交野も苦情を入れる気などなかった。そんな手間をかけるに値しない。

「はい、島之内。ここでええやろ?」

 早い地点で折り返して、ミナミやナンバあたりで客を物色したいのだろう。告げた行き先より手前で、乱暴にブレーキを踏んだ。

「じゃあ、これ」

 金はメーターを見ながら用意していた。乗車料金を受け取ろうと運転手が身体を振りむけてくる。

 その目の前で、少額コインでそろえた乗車料金を助手席にむけてばらまいた。コインが好き勝手に散らばる。

「おまっ……ふざけとるんか⁉︎ しかもジャリ銭ばっかり!」

 掴みかからんばかりの勢いで運転手が睨みつけてくる。交野は落ち着いた声で告げた。

「料金はごまかしていない。残らず拾えば、きっちりある」

 すれ違う車のヘッドライトが、交野の顔を照らした。

 切創が原因らしい怪我で途切れた左眉と、その下の不穏な目つき。

 交野の人相をはっきり見た運転手が、適切な判断をした。

「そ、そうでんな、拾ときますよって! おおきに!」

 落ちているコインを確かめる前から、すぐに客席のドアを開けた。

 通りに立った交野は、目的地に向けて駆け出す。軽くなった小銭入れの具合がいい。

 


 島之内の物件にむかう道筋は、零細の町工場や営業所が少なくないだけあって、人通りがなかった。

 ひたすら走る単純動作のなかで、交野に不安がよぎる。

 エリサの仕事から外された身で、ネヴァとやり合う余地があるだろうか。

 場を仕切っているのは式見だと聞いた。計画どおりに進めることを好む式見だ。呼んでもいない応援に、いい顔をしないことは目に見えていた。

 とにかくで来たのは甘かったか……。

 少しばかりの後悔が浮かんだところで、交野の前方をスーツ姿の女が横切った。

 見えたのは一瞬だった。そのうえ、距離も近くはない夜道。しかし遠目でも、薄暗い中でも、こいつの姿だけは間違えない。

 北辻アンロソ・ネヴァだ。一五年間、思い続けた姿が現れた。

 確信した途端、迷いが消えた。身体が一気に熱くなる。

 交野は恋愛などしたことはない。女にも男にも、特別な想いといったものを抱いたことがなかった。

 しかしこの感じは、もしかしたら似たようなものかもしれない。

 ネヴァへのこだわりは、遺恨だとばかり思っていたが——

 求め続けた女を追いかけた。

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