5話 キャンディでコミュニケート
クドーは、背後を尾形にふさがれる形で三階フロアまで上がった。
入れ替わって、式見が階下へと下りていく。その容姿を見るとはなしに目で追った。
明るい中で見た式見の着衣が、ずいぶんアンバランスなものだったからだ。
「早く入れ」
尾形にせっつかれ、エリサの私室になっている小部屋に入れられる。開きっぱなしの引き戸のそばに尾形が立った。
この建物にはいって初めて、生活感を感じる空間だった。
部屋の隅にたたまれた寝袋、ダブルスピーカーのラジカセや小物のたぐい。テレビもない質素な部屋だが、ここがエリサにとってリラックスできる空間になっている。
この部屋に、文字どおり土足で入ることがためらわれた。階段そばにスリッパがあったことからして、履き替えて生活していただろうから。
「さっさと座れ。雑談ぐらいは大目に見るが、勝手に立つな」
宇土の命令を後頭部で聞きながら、エリサのすぐ隣に腰をおろす。エリサが緊張のなかにも、わずかな安堵をみせて小さく頷いた。
エリサを挟んで反対側にすわるネヴァは、目を合わそうとしない。
脱出のチャンスを潰したクドーへの無言の抗議にもみえる。出血のあとが残る唇の端を強く引き結んでいた。
階下からのくぐもった音を聞きながら、エリサに小声で訊いた。
「怪我は? 殴られたりせえへんかった?」
「うん、あたしは大丈夫」
社交辞令みたいなものだった。脅されていて大丈夫なはずがない。
「水は飲めてる? お腹すいてへん?」
「あ……飲んでなかった。食事も。いつもなら、お茶してから軽く食べてるんだけど」
「そやったら——」
クドーは見張りに声をかけた。わずかなことを申告するのは、逆らわないアピールだ。
「バック開けるけど、ええやんな?」
尾形の目に警戒の色がはしった。
「フロントポケットだけや。さっき確かめたやろ?」
「手元が見えるようにやれ。まぎらわしいことはするな」
尾形が注視し、興味をひかれたらしいエリサが見つめてくる。
「そんなに注目されるほどのもんと、ちゃうんやけど」
小さなスチール缶を出した。軽く振り、カラカラと音をさせる。
「キャンディー?」
「お腹はふくれへんけど、気が紛れるで」
蓋をあけて差し出す。エリサの手のひらに、オレンジ色のドロップを落とした。
「北辻さんも、どう?」
缶の口をネヴァにむけた。
「わたしは……やっぱり、もらっておく」
手のひらを出してきた。
「甘いものキライじゃなかったっけ?」
「普段はね」
緊張する状況下で、糖分補給する必要性を理解していた。
クドーは缶を差し出す形で、ネヴァと距離を縮める。そのタイミングでささやいた。
「警官とはバレてへん。このままでいく」
正確には、尾形をのぞいて——だった。
バックの中身から、尾形はクドーの正体に気づいた素振りを見せた。そのくせ、ボディチェックで確かめることはしなかった。その意味を考える。
クドーが警官であると知ろうとしなかったのは——
ピンクのドロップがネヴァの手のひらに転がり出た。イチゴ味を口に含んだネヴァが礼を言う。「ありがとう」
その言葉のかげで、目が頷いてきた。
これで共同戦線がはれる。
「ミナミの人がキャンディーをコミュニケーションツールにしてるって本当だったんだ」
硬かった表情を少しだけ和ませた。
「みなが持ち歩いてるわけやないけど、ハグとか握手みたいなツールにはなってるかな」
ドロップ缶を持っていたのは偶然だった。クドーは自分の手にも缶を振る。
どの味が出てくるかは、缶を振ってみないとわかないギャンブルだ。白が出てきた。
ハッカの冷んやりした味覚を舌で転がしながら、相方のことを考える。
待ちくたびれたリウが動き出してくる頃合いだった。それまではエリサの緊張を少しでもといて、体力を保たせておきたい。
クドーは、雑談のネタを探す。そばにあった小物に目をとめた。
「このケース、ええ本革やな。見ても?」
「落とし物なの、それ」
「手元に持ってるんやったら、店の外で拾た?」
「二日前、仕事から帰るときに。早く届けなきゃとは思ってたんだよ?」
「責めたりせえへんって」
苦笑を返しつつ、クドーは目のはしで尾形をうかがった。
二階の作業が気になるのか、視線をしょっちゅう階段方向に向けている。それでも逃げ出すスキはもらえそうにない。耳もこちらの会話をとらえているかもしれなかった。
クドーはカードケースをあらためる。二つ折りを開くと、免許証がはいっていた。
写真は若い男性。ツーブロックにセルフレームの眼鏡、ふっくらした顔だちをじっと見る。
見覚えがあった。髪型や加齢で見た目が変わったとしても、目元や耳まで変えることはできない。何より、氏名欄に覚えがあった。
ガリード
エリサの通勤路にいたのは偶然だったのか。目的があったのなら、店に来たとき何らかのアクションを起こしたはずだ。
ところがセイジのやったことは、暴れてネックレスを奪っただけで終わっている。ネヴァの抵抗にあって頓挫した可能性もある。
エリサに小声で訊いた。
「この革ケース、あたしが預かってもええかな?」
「そのほうが助かる。気が楽になるよ」
了承をもらって、クドーはジーンズのヒップポケットに押し込んだ。つながりがなければ、拾得物として処理するだけだ。
気になるのは、カードケースの話になると尾形が興味を示したこと。
聞いていないふうを装っても、表情筋に緊張があらわれた。セイジのものだと知っているのか……。
証明写真の男の正体は、エリサに知らせないでおいた。
式見の目的にセイジが関係しているとしたら、免許証を拾ったエリサの扱いが違ってくるかもしれなかった。
カードケース?
尾形の耳に気になる言葉が飛び込んできた。
ボスの息子が、ヘマをした場所で免許をなくしたかもしれないと聞いていた。
店員が拾った革ケースに入っていたカードが、テレホンカードということはないだろう。エリサをさりげなく視界に入れる。
この女がセイジの目撃証人になりうるかもしれない?
式見が始末を要する仕事があると言っていたのは、こういうことだったのか……。
尾形は舌打ちしたくなった。取引の現場に集中したいというのに。
暴力行為に加担はできない。しかし、積極的に加わらないと信用を失う。逃れる口実づくりが必要になる。
ここまできた計画をとめるわけにはいかなかった。
クドーが開いた革ケースに、ネヴァも見るとはなしに目をやった。証明写真の男を一瞥し、すぐに視線を戻す。
戻したものの、どこか引っかかりを覚えた。
知らない男のはずだが、もう一度確かめたい。振り向くと、クドーと目があった。
「気ぃついた?」
口パクで訊いてきた。
「…………」
記憶の端に引っかかっているのに、あと少しで見えない。
クドーが答えを言いかけたところでインターホンのチャイムがなった。フロアにいた全員がびくりとなる。
ひとり驚かなかったクドーが、早口でささやいてきた。
「背ぇ
どうにか聞きとった。通報で店に来た、もうひとりの警官のことだ。顔は覚えている。
クドーが言い終わると同時に、ハンドガンをベルトにはさんだ式見があがってきた。
「この家は、いつも夜中に客がくるのか?」
苛立たしげにエリサに訊く。ネヴァは式見の矛先を変えさせた。
「わたしの同僚だと思う。呑む約束をしていたから」
ネヴァ自身が応対に出るように仕向けた。
「追い返せ。あとは言わなくてもわかるな。客が帰るまで確認する」
ネヴァはインターホンに出る前に、不安げなエリサの肩にふれた。「心配ない」
それからクドーに目でうなずいた。
普段なら、警官と手を組むなどありえない。
とはいえエリサの安全がかかっているなら、靴を舐めてでも助力を求める。
「おれと一緒にこい」
式見が尾形に命じた。
「三階の見張りは広田にやらせる。先に呼んでおけ」
クドーは、尾形を見るときの式見の視線が気になった。
瞬刻だけ垣間見せる、眼鏡の奥の険しい目つきは何なのか……
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