三章

1話 期待の訪問者

「上がってろって言われてたのに、ごめんなさい……」

「いいよ。心配で見にきてくれたんでしょ?」

 エリサは、ネヴァをもっと信頼すべきだったと後悔した。

 危険から遠ざけようとしてくれていると思う一方で、くすぶり続けている疑心暗鬼に負けた。足がネヴァがいる一階へと戻ってしまった。

 ネヴァが家にきたタイミングで、工事業者を装った人間がきた。もしかしたら、何かよくない関係があるかもと疑ってしまった。ネヴァが怒らないことが、かえってつらい。

 感情的にならないのは眼鏡の男も同じで、ボールペンで喉を刺されかけたというのに、ネヴァを殴ったりはしなかった。

「無駄なことはしない性分でね。あなたを大人しくさせるには、殴るより——」

 エリサを顎でさした。

「そちらのお嬢さんを使ったほうが確実だ」

 会ってから二、三分のうちで、ネヴァとの関係を読みとり利用してくる。

 ホワイトカラーな見た目だが、新たに現れたふたり——二メートルに届きそうな身長の男と、腕も腹も太い固太りの男——とは別のタイプの凄みがあった。

「式見さん、急がないと」

「わかってる」

「ニシキミ」は偽名だった。式見が腕時計を確かめて指示を出す。

広田ひろたは回収を手伝え。宇土うどは三階で監視だ」

 男たちの行動は素早い。鈍重そうな広田でも、ワークウェアのふたりとともに二階に駆け上がっていった。

 エリサは長躯から見下ろしてくる宇土に急き立てられ、階段をのぼる。後ろについてくるネヴァの存在だけが、エリサを気丈にさせていた。



 エリサが丁寧につかっていた三階フロアに、式見と宇土が土足であがりこんだ。

 ネヴァは、腹立たしさを押し殺して指示に従う。そういう自分も土足のままで、エリサにも靴を脱がないように囁いた。

 このあと、どんな展開になるかわからない。足を守っておく必要があった。

 クローゼットのある部屋に戻り、おとなしく床にすわる。

 開けたままのドア近くに、式見と宇土が立った。

 宇土がコンバットナイフを手にしているのに対して、式見はスタームルガーの九ミリオートを手にしている。ジャンクな銃ではないあたり、そこそこ資金がある組織にいることがうかがえた。

 やたら弾丸をばら撒かない分別があることを期待して、言うだけ言ってみる。

「二階に何を隠してたのか興味ないし、邪魔もしない。わたしが人質に残るから、エリサを解放して」

「いい姿勢だ。無事に解放されたかったら、その調子でじっとしてろ」

 おとなしくしていても、無事が保障されるものではない。エリサをどうすれば外に逃がせるか、ネヴァは考える。



 ネヴァと式見のやりとりをエリサは身を縮めて聞いていた。

 ボールペンで反撃しようとしたネヴァを、式見はずいぶん警戒していているようだった。見張りをひとりでやらず、二階の作業より優先させて宇土を側においている。

 ネヴァはずっと落ち着いていた。

 治安がよくない場所への海外出張で慣れているというレベルではなく〝そういう世界〟にいた人なのかという気すらしてくる。

 そんなことを考えている間も、階下から不穏な破壊音が聞こえてきた。経営のための新しい拠点をつくろうとしていたニルダには、聞かせたくない音だった。

 ワークウェアのふたりと広田が取り出そうとしているもの……。

 ネヴァが感じとったニオイの原因は、これだったとしても、がらんとした二階フロアのどこに隠していたのか、まったく想像がつかない。

 エリサにわかるのは、この場所が選ばれた理由だった。

 両隣とも、人が住んでいる民家ではないから、取り出す音を気にしなくていい。周囲は事業所や小さな工場が多く、夜間になると人通りも絶える。人目を忍ぶには、うってつけに思えた。

 いまのところ、式見たちから乱暴なことはされていない。しかし回収したあと、そのまま大人しく出ていってくれるか不安ではあった。

 電話が通っていないと、ニルダと連絡が取りにくくなったぐらいしか考えていなかった。

 外部とのつながりが絶たれ、助けを求める手段がない。

<トラスコ珈琲店>での同僚に、住所をおしえるほどの人はまだいないし、連絡をとっている学生時代からの友人も、新しい住所は教えていないから訪ねてきてくれるはずも——

 インターホンのチャイムが鳴った。

 絶妙なタイミングに飛び上がりそうになる。

「出るな。ほうっておけ」

 式見の応えは案の定だったが、

「明かりがついているんだから、居留守は使えない。かえって不審に思われる」

 ネヴァが言われるままにはさせなかった。

 女性が防犯のために、電気料金を犠牲にして、留守でも明かりをつけっぱなしにしていることはある。そんなことに気が回る男たちでもない。

 式見がしぶしぶ頷いた。

「動いていいのはお嬢さんだけだ」

 エリサはインターホンに応えるために、部屋からホールスペースへと出た。

 それにしても誰なんだろ……?

 心当たりのないままインターホンの受話器をとった。

『遅い時間にすんません。南方面分署警ら課のクドー・マリア巡査です。お渡ししたいもんがあるんで、五分だけ時間もろてええですか?』

 ひそかに安堵の息がもれた。ベタベタな地元訛りが、このときほど頼もしく聞こえたことはない。

 店の騒ぎにも来てくれた、あの小っこい警官だ。

 凝り固まっていた肩の緊張が少し抜ける。望みが出てきた。

「すぐ行く……あ、ごめん。やっぱりちょっと待って」

 エリサは、ひと手間くわえる。まずネヴァに、

「マリアだった。ほら、先週コーヒー飲みにきてくれたクドー・マリアだよ」

 巡査だとは口に出さずに伝えた。店で会った警官だとネヴァが覚えているなら、連携がとれることがあるかもしれない。

 式見には従っている姿勢をアピールする断りをいれた。

「友だちが忘れ物もってきてくれた。受け取りたいんだけど」

「明日にしてもらえ」

「いまさら出ていかないと不自然に思われる」ネヴァが異見をねじ込む。

「エリサの一人暮らしを気にかけてくれてる人だからね」

 式見が音を出さずに舌打ちした。

「余計なことをしたら、わかってるな? 宇土」

 ナイフを手にした宇土が、ネヴァから少しだけ離れた位置に立った。

「疑わしい素振りをみせたら容赦しなくていい」

 ネヴァの表情は冷めたままだったが、エリサと視線を合わせると瞳に温度がはいった。

「心配いらない。いっておいで」

 玄関にむかうエリサには、式見がついてきた。

 こいつに知られないまま、クドーにいまの状況を伝えられるのか。

 伝えさえすれば、うまくいくのか。

 クドーだけで、式見たちの暴力に立ち向かえるのか……

 現状を冷静に考えると、膝が震えて階段を踏み外しそうだった。

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