5話 ライフラインが足りてない

 三階にあがるとすぐ、ネヴァは靴を脱ぐように言われた。

「このフロアは土足をやめてるの。スリッパを使って」

 すでに履きかえているエリサから、別のスリッパを差し出された。

「もう予備を用意してあるの?」

 エリサが部屋に呼ぶ友人に思いがいたったが、

「誰かさんがすぐ部屋を見にくるだろうなって。そのとおりになったし」

「…………」

 三階も二階と似たようなつくりになっている。階段をあがってすぐ、小さなホールスペースがあり、トイレのほかにミニキッチン。キッチンをはさんで奥のほうに広めの倉庫スペースがあり、その片側に小さな部屋がふたつ並んであった。

「こっちの部屋をメインに使ってるんだ。クローゼットもあるし」

 広いほうの小部屋に招き入れたエリサが、クローゼットを開けてみせた。

 のぞいたネヴァはため息をつきそうになる。ジャケットが2枚とボトムが三本かかっているだけだった。

「中身がなくちゃクローゼットがある意味ないでしょ。就職祝いに服をプレゼントする。今度、買いにいこう」

「間に合ってるからいい」

「いまの歳から禅僧みたいな生活しないの」

 エリサの居住スペースは、段ボールで構成されていた。部屋の片隅に、大きめの段ボールと事務椅子がおいてある。二階のスチールデスクの椅子だった。

「これで、デスク兼食卓とか?」

「あ、勝手に持ってきたのマズかった?」

「言いたいのはそこじゃないんだけど」

「じゃあ無駄がなくていいじゃない」

 あとは寝袋と、身の回りのものが入っているらしい、これまた段ボール。

 寝袋の枕元におかれた、カセットテープとステレオラジカセが、生活の潤いをかろうじて感じさせた。

「…………」

「ネヴァが何を言いたいか、わかってる」

「せめて折り畳み式のテーブル持ってくるよ。段ボールテーブルじゃ使いにくいでしょ」

「部屋が見つかるまでの場所だから、とりあえずはこれでいい。荷物が増えたら引っ越すときに大変になるよ」

「二十代女性の部屋なのに……」

「ネヴァの部屋だって似たようなものじゃない」エリサが反論する。

「ビジネスホテルの部屋でも、もうちょっと調度品があるよ?」

「オバさんの部屋はあれでちょうどいい。人生の後片付けも視野に入ってくるから」

 わずかばかりの遺産も、すでに遺贈の手配をすませてあった。

 贈る先は言わずもがな。



「人生五〇年の時代でもないのに用意が早すぎ。海外出張しなくてよくなったんだから、いまからパートナーを探したって全然遅くはないでしょ?」

 エリサは、ネヴァのプライベートをまったくと言っていいほど知らなかった。

 ネヴァのことをもっと知れば、正体のわからない心許なさも軽くなるかもと踏み込んでみる。

「ネヴァこそ、もっと楽しんでよ。ブランド物に興味がなくても、いつも土鳩色のスーツじゃあんまりだよ。もっときれいな色のビジネススーツだってあるじゃない。ニルダみたいにアロハシャツで出勤とまでいかなくても」

「パートナーなんて今さらいらない。スーツは地味な色が落ち着くの」

「今さら? どんな人とお付き合いしてたの? ね!」

「……黙秘する」

「ネヴァの初恋の人ってどんな人だった?」

「唐突な質問ばかりどうしたの?」

「不安……なんだと思う」

 いつもの癖で胸元に手をやったが、四つ葉のネックレスをとられていたことを思い出した。気づくと余計に落ち着かなくなった。

「なんでなのか自分でもわからないんだけど、ネヴァに怖れ? みたいなものを感じることがあって。大人になっても甘やかしてくれる人だってわかってるのに」

「…………」

「だからネヴァのことを聞きたいの。相手を理解することは安心の第一歩でしょ? というわけで最初の質問」

「中年を問い詰めないで。長く生きてると、恥ずかしい思い出もいっぱいあるんだから」

「歳でごまかさない。あたしのことだけじゃなくて、ネヴァのこれからもちゃんと——」

「エリサ、色の趣味が変わった?」

「はぐらかさいで」

「いや、真面目な話」

 部屋のすみ、出勤のときに使っているバックがおいてある。開いたままの口からのぞいている、黒の革ケースをネヴァが指した。

「エリサの好みは暖色系でしょ? ただの気まぐれなら別にいいんだけど……」

「気持ちが不安定になって黒に走ったとかじゃないよ。落とし物なの、それ。

 一昨日だったかな。免許証だったから急いだほうがいいんだけど、届けるためだけに警察いくのは手間だし、よく店をのぞいてくれるパトロール警官も、この二日は来なかったから。モヒカン一味が暴れたさっきは、それどころじゃなかったし」

 ネヴァが革ケースを手にとった。

「本革だね。革の断面を磨いてあるから、結構いいやつだよ」

 ネヴァの隣から覗き込もうとしたところで、一階の呼び出しチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だろ?」

 出ようとしたネヴァより先に、エリサはインターホンの受話器をとって応えた。

 送話口をおさえてネヴァに伝える。

「電気工事の人だって。業務記録から配線ミスがみつかって、漏電がおきるかもしれないから、すぐ検査させてほしいって。いいよね?」

「ニルダに確認する。どこの工事会社?」

「ここ、まだ電話がないの。かけるのなら三〇〇メートル先の公衆電話までいかないと」

「そうだった……最低限のライフラインしか通してなかったんだったな」

 電話までの微妙な距離に迷っている。

「家の管理を家賃に入れてもらってるから、見てもらっておきたいんだけど……」

 わずかな漏電でも、感電や火災の危険がある。そしてネヴァとふたりきりでいることが、まだ落ち着かなかった。

 ネヴァは管理をまかされているエリサの立場をとってくれた。

「わかった。ただし、対応はわたしがする」



 玄関ドアにはドアチェーンがない。ネヴァは一〇センチほど開けただけで止めた。

 ひと目で吊るしとわかる安スーツの男が、ネヴァを見るなり深々と頭を下げた。

「夜分にいきなりおじゃまして、大変申し訳ございません」

 後ろにいたワークウェア姿の電気工事士ふたりも、続けて頭をさげた。腰ベルトにどっさりつけた、ニッパーやプライヤといった工具がかすかな音をたてる。

 最初に挨拶したシルバーフレームの眼鏡男が、両手で名刺をさしだした。そこにあったのは、二〇秒で忘れてしまいそうな会社名。男のネームは「錦見にしきみ一臣」。

 錦見は、管理会社としての謝罪の言葉に続けて、検査をしたい旨をくりかえした。

「こっちに電話がないから、いきなりの訪問になったんだし。入ってもらおうよ」

 うながすエリサに、ネヴァは納得しなかった。名刺もワークウェアも、身元を明らかにする決定打にはならない。

「おひきとりを。明朝、改めて連絡します。ニシキミさん」

 スーツが神経質そうに眼鏡を押しあげた。

「問題が見つかったのは二階部分のみです。なるべく短時間ですませますので」

 二階……か。ネヴァは冷たい声で告げる。

「ボロが出てるの、気づいてないの?」

 背後のエリサから戸惑う気配がつたわってきた。

 錦見が眼鏡の奥で、会社員には見えない目付きをみせる。一瞬で消し、慇懃いんぎんな笑みを返した。

「あの、おっしゃってる意味が……なにかお気に障りましたでしょうか?」

「電気工事にはまったくの素人だけど、あんたら、明らかにおかしいんだよ」

「ネヴァ、どうしたの……?」

「エリサは上にあがっておいて」

「え……」

「早く」

 強い口調で言うと、理解できないままでもさがってくれた。

「失礼ながら誤解されて——」

「じゃあ、おしえて」

 エリサが階段をあがる音を聞いてから、ネヴァは対応にかかる。

 荒仕事で稼いでいる人間なら、この動作の意味がわかる。右手をジャケットの内側に入れた。それだけで眼鏡男の顔から愛想笑いが消えた。

「後ろに立ってる作業服のひとりが、革靴を履いてる理由は?」

 開き直ったか。ふてぶてしい笑みを垣間見せたかと思うと、右手がスーツの裾をさばいた。

 なめらかな動きでハンドガンを抜く。

 ネヴァも抜く。

 内ポケットに挿していたボールペンを寸秒のうちで手の中で回転させる。ハンマーグリップ順手で錦見の喉を突き刺す——手前で止めた。

 銃口が照準したのはネヴァではなかった。錦見が見ているのは、ネヴァの背後。

 上階に上がったはずのエリサが、一階に戻ってきていた。

 ネヴァは右手を開き、ボールペンを落とす。



 工事業者や配送業者は、相手の建物内に入り込むためのとっかかりになる。式見が普段から使っている手だった。

 とはいえ、いつも万全の準備とはいかない。服なら多少のサイズ違いでも使わせたが、靴はそういうわけにはいかず、手間を省くことがある。だます相手が足元まで見ないだろうという侮りがあったことは否めなかった。

 ——作業服のひとりが革靴を履いてる理由は?

 ばれたからといって、Uターンはできない。身体的な制裁より避けたい事態があった。

 ボスは後継候補から息子を外しつつある。ここで今回のトラブルをおさめ、取引まで成功させれば、不始末をしでかしたセイジも合わせて葬る決め手になる。

 ガリードの組織<コルミージョ・クラン>の中枢をおさえる一歩になるとなれば、前に進むしかない。

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