4話 面倒事のニオイがする

 看護師を辞めたエリサが安い部屋への引っ越しを考えている——

 このことをネヴァが知ったのは、ニルダをとおしてだった。

「わたしは相談されてない」

 憮然として言ったネヴァに、

「そりゃアパート代をそっくり立て替えるとか、自分の部屋を貸すとか言われるのが目に見えてるからじゃない。エリサの独立心は尊重してあげないと」

 ニルダが的確な答えを返してきた。

「だいたい、あなたに安い部屋のあてがあるとは思えないし」

 ネヴァは返答につまる。

<トラスコ・グループ>に入った早い時期から海外出張で飛び回っていた。危険手当てもついていたから、部屋代の工面に困ったことがない。不動産業の知人もいなかった。

「というわけで今度の新しい事務所、エリサに間借りさせることにしたの。だから時々、様子を見にいってやってくれる? あたしばっかり行って欝陶しがられるのイヤだから」

 ニルダの事後報告に、ネヴァは渋い顔のままだった。

「行くのはいいけど、あんな場所で大丈夫? 幹部連中のOKとれた?」

「じゃあ『あんな場所』じゃないとこに事務所スペースが確保できるよう、上にかけ合って」

「そういうの苦手なの、知ってるでしょ」

「あと、身内に間借りさせるぐらいで報告あげる必要ないよ。設備を運び入れるの、もう少し先だし、エリサに管理させるようなものだし」

 ネヴァもこの物件はすでに見ていた。人も商品もまだ何もないガラガラの状態で、違法なものを入れる予定もない。

 そちらの心配はないのだが、事業所が多いエリアだ。帰りが遅いエリサが住むとなると、夜間に人が少ないことが気になった。

 ニルダが独り言のようにこぼした。

「豪邸もベンツのSクラスもいらないから、真っ当な商売だけでやっていきたいよねえ。血生臭い争いなんて、もううんざり」

<トラスコ・グループ>は、コーヒー農園とのダイレクトトレードを主流にしている。

 中間マージンのコストをカットでき、良質でリクエストに応じたコーヒー生豆を仕入れられる利点がある一方で、悪天候などで必要な量や質を確保できないことがあった。

 この不安定さを補う保険の役割も求めて、豆以外も扱っていた。

 そういったモノを仕入れ、コーヒー豆に隠して仕入れる。珈琲屋店舗経営はロンダリングにもなった。

 ミナミの店舗は、コーヒー以外での上がりが大きい売り場だったが、このエリアには商売敵とは、また違った障害があった。

〝幽霊〟ともいわれている正体不明の秘密結社が、ミナミを拠点として展開しており、大きな取引をしようものなら途端に介入して阻んできた。

そのせいで抑えた商売をしていたのだが、だからこそ警察の目も逃れやすかった。

 まさしく保険の範囲。正規のコーヒー豆商売が軌道にのったここ数年で、取り扱いはなくした。

 違法な商売は暴利がとれるが、競合相手との暴力がつきものになる。警察の取り締まりを避けるにも手間がかかる。

 力でのし上がることに価値を見い出さないなら、さして魅力的な商売とはネヴァには思えなかった。

 しかし、社内の意見が一致しているわけではない。

 利益を追求して取り扱いを復活するべきだという意見は消えておらず、幹部たちの主張は現在も割れていた。

<トラスコ・グループ>はまだキレイになる途上にあり、きな臭い内紛の芽がある。ネヴァにしてみれば、こういう店にエリサを関わらせたくなかったのだが——

「働きはじめて、すぐに挫折したショックを抱えてる。うちの店で働いてたら、何かあってもすぐにフォローできて安心でしょ?」

 ニルダの言うことはもっともに聞こえる。

 むしろ、エリサを手放さない言い訳として納得してしまった。



<トラスコ珈琲ミナミ店>での揉め事は、昔に比べて穏やかなものになった。ほろ酔い客が熟睡して起きないとか、カップルの痴話喧嘩がエスカレートしたといった程度に。

 だから油断があったとネヴァは思う。よりによってエリサのシフトのときに、ナイフを持ち歩くような連中が入ってくるとは。

 一方で、偶然ではない気もした。

 いやがらせのオーダーをして、金目のアクセサリーを奪おうとする。やっていることはチンピラのまといつきそのものだが、ソフトモヒカンの注意が、やたらエリサに向いていた。

 こいつがエリサをストーキングしていたやつかもしれない。

 しかしネヴァは、通報で店にきた凹凸コンビ警官に、こういったことは伏せて、騒動の顛末を説明した。付きまとい程度では本気で調べないだろうし、エリサの身辺を訊かれるのも不愉快だ。片付けるなら自分の手でやったほうが穏便で確実だと考えた。

 ただ、巡査にあずける連絡先は正直に書いた。こういった場合に備え、キレイなものを用意してある。

 そうしてソフトモヒカン一味を警察に回収させると、ひと気のなくなった店を施錠した。散らかった店内の掃除は明朝にまわす。エリサが間借りしている事務所に足をむけた。

 先に帰らせたエリサの様子を確かめたい。親を亡くしてから十五年は経つ。それでもまだ、エリサの心は安定したと言いがたかった。



 エリサの在宅中に行くのは、今日が初めてになる。

 ネヴァの足で店から歩いて一〇分足らず。商業店舗が少なくなり、中小規模の社屋が多いエリアになってくる。この辺りまで来ると、夜らしい落ち着きが感じられた。

 建物も全体的に低くなり、三階から五階建といった高さが多くなってくる。

 エリサが住む社屋は、間口が狭く、奥に深い三階建て。

 向かって右隣が、このあたりではモータープールと呼ばれる駐車場で、立体の五階建て。左隣が細巾織物の営業所で、こちらは四階建てだ。

 新しい社屋には、まだサインプレートもないから一般住宅にみえる。違いは、荷物の出し入れ用に大きく出入り口が切ってあるぐらいで、餃子ペイントのシャッターを除けば、周囲に埋没する地味な建物だった。

 しかし、この餃子をまだ消していなかったとは。ニルダが管理しているのなら、面白がって残している可能性がなきにしもあらずだった。

 ネヴァは、餃子シャッターの横にあるインターホンを押した。来訪を告げる。

 少しして、スピーカーからエリサの割れた声が応えた。インターホンも交換したほうがよさそうだ。

『え、ほんとに来たの⁉︎』

 なんという言いよう。

『いま開けるから、ちょっと待ってて』

 すぐに追い返す気はないようで、ネヴァはほっとする。

 少し休みたかった。徹夜で動き回っても平気だった五年前にくらべ、明らかに体力が落ちてきていた。

 まともな睡眠がとれていないせいもある。

 エリサに添い寝して唄っていた頃は、まだ不眠症ではなかった。発症したのは、エリサの記憶の一部が失われた出来事と重なっている。だから、ずっと話題にあげないようにしていた。

 その原因を思うことは、エリサにもネヴァにも、寂寥感せきりょうかんに身体の芯を冒されるようなものだったから。



 アルミのフラッシュドアにある縦長の小窓の内側に灯りがつき、鍵が開けられた。

 長袖Tシャツ、サイドラインがはいったニットパンツに着替えたエリサに出迎えられる。

「ティーパックのお茶しかないけど飲んでって。三階だよ」

 エリサが先に階段をあがっていく。そのあとにネヴァも続いた。

 土足のまま二階にきたところで、虚をつかれて足をとめた。お茶に誘われて緩んだ気持ちが、一気に緊張で張り詰める。

 かすかに覚えのある、独特の臭いがした。

 甘みをまぜた草を燃やしたような臭いは、街中では無縁のものだ。

 問題は、なぜここに、この臭いがあるのかだった。

 荷物も何もない、がらんとしたフロアを見渡す。目に付くところにないということは、意図的に隠してある。

 ネヴァがこの家屋に足を踏み入れたのは、一ヶ月以上前だった。防犯上のアドバイスを求めるニルダとともに来たときには、こんな臭いはなかった。

 そのあとで、この建物に持ち込んだやつがいる——。

 ニルダが関与しているとは考えなかった。

 大雑把な性格とは裏腹に、ニルダの仕事スタイルは、リターンが減っても少ないリスクのほうをとる手堅さにある。派手な収益はなくても、堅実な店舗経営で利益を上げていた。

 それに、ミナミ店舗が薬物販売からの撤退へと舵を切ったとき、いちばん喜んだのが彼女だった。もしニルダの考えが変わったとしても、内密に利用している物件をエリサに間借りさせたりはしないはずだ。

 会社が一枚岩でないのは昔からで、薬物販売からあがる利益の額が忘れられず、取引量を戻そうとしている気配もある。入手ルートを維持、あるいは新しく開拓した奴らが、勝手に使っている可能性が考えられた。

 こんなものをエリサの身近においておきたくない。

 ここに落ち着いたばかりのエリサに、すぐまた引っ越しをさせることはむずかしい。なら、問題のほうを探し出して廃棄するほうが早いか……。

 ネヴァはもう一度、二階フロアを見回した。階段そばのスペースには、椅子がひとつ足りないグレーのスチールデスクが二台、壁に沿って並んでいる。その奥、物置になるスペースには、空のスチール棚が数台あるだけでしかない。

 デスクがあるスペースをはさんだ反対側に、ドアがついた小部屋があった。

 そのドアを開けてみる。古ぼけた小さなソファとローテーブルがあるだけだった。

「どうしたの?」

 上がってこないネヴァを待ちかねて、エリサが下りてきた。

「エリサはこの臭いに気がついてる?」

「初めて来たときから、ずっとあったよ」

 エリサもフロアを見渡した。

「内装材のニオイじゃないよね。倉庫だったそうだから、その名残りかと思ってた」

「ニルダは知ってるの?」

「これがあるから、毎日の換気を格安家賃の条件にしたんじゃなかったの?」

「健康に悪いものかもしれない。うちにおいでよ」

「二階は通り過ぎるだけだし、このニオイで頭痛とか、気分が悪くなったりもないから大丈夫だと思う。それより早く上がっておいでよ。疲れたから、ゆっくりしたい」

 部屋を出てもらう案は、やはりだめだった。

 エリサが店に出ているあいだに調べるしかない。いますぐ確かめたい気持ちをおさえ、ネヴァは三階へと上がった。



 ネヴァの厚意を断ったのは遠慮ではなかった。

 漠然としたネヴァへの気掛かりから、エリサは距離をつめることができないでいる。根拠不明の、わずかな不安に囚われる自分に苛立ちすら覚えるが、ないことにもできない。

 断りの理由は嘘ではないにしろ、後味の悪さが残った。

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