3話 住まい探しは大変だ

 アパート代、どうしよう……。

 エリサが看護師の仕事を辞めた当初の悩みは、これにつきた。

 看護師を目指した理由には経済的安定もある。ひきとって育ててくれた叔母、ニルダから早く独立するには、収入が比較的高い看護師は魅力的だった。

 そうして初めて得た自分の城は古いアパートの1DKで、駅から歩いてたっぷり一〇分以上かかる。

 そんな部屋でも看護師を辞めると、すぐに大きな負担になった。

<トラスコ珈琲店>はエリサの父、モラーノ文夫ふみおが勤めていた会社の系列店舗であり、ニルダも経営に関わっている。おかげで珈琲店の仕事を紹介してもらえたわけだが、社会保障がないアルバイトでは生活費が苦しかった。

 もっと安い部屋に引っ越すしかない。

 南区の家賃はバカ高いが、建築物型にはまらないミナミでなら話は別だった。

 建築基準より天井の高さが少し足りないとか、キッチンがないとか、五階以上の建物なのに階段移動といった、穴場物件があると聞いていた。

 天井の高さにこだわりはないし、ミナミでなら食事も通りに展開する屋台で、安く手軽に間に合わせることができる。仕事が終わったあとでの階段のぼりはつらいが、家賃と引き換えなら許容範囲になる。

 ただ、保安は犠牲にしたくなかった。

 人間が密集しているミナミで防犯に気を抜くと痛い目に遭う。

 気のいい人が多い反面、犯罪を食い扶持にする人間も少なくない。犯罪現場はすぐ隣の用心が必要だった。

 一般的な防犯意識で安全が得られる部屋がほしかったが、地元情報や知識がうすい客をカモにする不動産屋も多い。地元に明るくて信頼のおける業者なしの部屋探しは、闇鍋をつつくようなものだった。

 とっかかりがないからといってこのままでは、少しばかりの蓄えも減るばかりだ。

 様子を見るために店にやってきた、ニルダに相談してみた。



 ニルダが知る不動産屋は、法人や中所得者層がメインの客だった。安い部屋の情報は、通りいっぺんのものしかない。

「エリサの給与だけ上げるってわけにはいかないから、アパート代のほうを援助するよ」

 両親とも早逝したが、助けてくれる人にめぐまれている。ありがたい申し出だったが、自分の都合で辞めた引け目がある。アパート代援助は遠慮した。

 代わりに<トラスコ珈琲店>を部屋がわりに使わせてほしいと頼んでみた。ベッドは店のソファで代用できるし、鍵はしっかりしている。

「言葉をかえたら住み込みかな?」

 スタッフルームの机にニルダが突っ伏した。ゴン! という鈍い音。

「だ、大丈夫?」

 おでこをぶつけた痛みと、懊悩を表出させたかのような声でしばらく唸ったあと。

「倉庫スペースを備えた事務所を新しくつくる予定があるの。とりあえず、そこに住む?

 ライフラインはもう通してあるから、最低限の生活はできる。エリサの家財一式、どうせ段ボール三つぶんぐらいしかないんでしょ? 会社の荷物を運び込んでも余裕だから、そんなに急いで出てかなくてもいいし」

「ほんと⁉︎」

「ただ中古物件で、掃除とかまだ全然やってない。ざっとでいいからエリサがやってくれる? 住んでる間、掃除と屋内換気を定期的にしてくれるなら、賃料はこれでいい」

 指を三本たてた。

「水道、ガス、電気代も込み。どう?」

「大家さん、ありがとう!」

 独り立ちしたいという希望を重んじてくれた。そのうえ、安全と引き換えの安アパートに住まわせるぐらいならと、ずいぶん歩み寄ってくれた。

 賃料をタダにされると、かえって借りにくい。提示されたのは絶妙な金額だった。

 ロックしていた机の引き出しから、ニルダが鍵をだした。

「忙しくて一緒には行ってあげられないから預けとく。いつからでも入っていいよ。地図を書いとくね」

 新しい家具を買うまえに辞めてしまったこともあるが、物欲がなかったせいもある。ニルダが言ったとおり、荷物は段ボール四つぶんといったところ。手運びでの引っ越しも無理ではなかった。

 事務所物件が店から近いのもよかった。

 トラスコ珈琲での閉店作業をおえると、夜の十一時ぐらいになってしまう。ミナミなら繁華街の中心から離れても、夜どおし明るい所が多いが、場所によっては暗くて人通りが少なくなる。通行人がいてもトラブルに巻き込まれやすいから、移動距離は最短にしたかった。

「っと、喜ぶのはここまでね。まだ電話をひいてないの。いちばん近い公衆電話は三〇〇メートルぐらい先かな。事務所だからシャワーも直してないし。銭湯は平気?」

「あたしは結構好きだよ。子どもの頃、家族で温泉に行ったこと思い出すな」

「エメリナと? めずらしいね。プールの水着もいやがる人だったのに」

「家族旅行なんて、めったにないことだったから」

 行き先が小さな温泉施設になったのは文夫の独断で、家族への相談なく決めるのがいつものことだった。

 ニルダの言うとおり、他人と一緒の入浴をエメリナがいやがったのでエリサは……

 誰と入ったんだっけ……?

 家族だけではなく、トラスコの他の社員家族と一緒だったのかもしれない。家族参加のイベントをやっていた会社だったから。

「あ、公衆電話の地図もあったほうがいいね」

「早いうちに周辺を歩くつもりだから、そのときにでも見ておくよ?」

 生活必需品を買える店をチェックしておかないといけない。

「探すと意外に見つからないのが公衆電話だよ」

<トラスコ珈琲店>から事務所までの地図を書き終えたニルダが、コピーの裏紙をもう一枚出した。

「メモ一枚増えたとこで、たいした手間じゃないんだから遠慮しなさんな」

 鼻歌まじりでペンを走らせるニルダに、もう一度礼を言った。

 これで当分は休める場所が確保できた。換気の手間ぐらい、どうってことない。

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