2話 この世の悪夢
ナイフを手に構えた足に違和感を感じた。
動かない。
足裏が靴をとおして床にはりついているようだった。
足元に視線を落とす。
床に広がる、どろりとした暗赤色が、生き物のように、ずるりと這い上がってきた。
くるぶしの下から、ふくらはぎに。さらに膝上へ。じわり、じわり……
スラックスをとおして、生温かく、ぐにゃりとした感触がまといついてくる。肌が粟立ち、産毛までもが総毛たった。
その間にも対する相手は迫ってくる。
その手元に動転する。相手もナイフだったはずなのに、ハンドアックスになっていた。
幻視を見ているような恐怖を感じた。
凄惨な死の現場で、臭いや汚れで不快に思うことはあっても、怖いと感じたことなどなかったのに。
手が届く距離に相手がくる。自由が残っている上半身だけでナイフを振るった。
ブレードが相手の身体を通過した。
焦るあまりの目の錯覚だ。さらに何度も斬る。
素通りするばかりで手応えもない。
相手がハンドアックスを振り上げた。
避けようとする。なのに、足が動かない。
無傷で生き延びることはできないなら、無理は承知。ナイフで受け流そうとした。同時に左腕で頭部をガードする。
ハンドアックスが、ナイフを障害とせず通り抜けた。分厚く重い刃が左腕に到達する。
肉と骨が切り離される。
左腕の肘から先が宙に飛んだ。
視界が鮮紅色だけになる。噴出する自らの血で全身を洗われ——
交野は飛び起きた。
勢いがつきすぎてベッドから転がり落ちた。
肩で呼吸をして空気を貪る。息をととのえながら周囲をみまわした。
ブラインドの隙間からネオンが忍び込み、部屋の中にカラフルな薄明かりを提供している。
ぼんやりと見えるのは、脱ぎっぱなしの衣類。部屋の隅に乱雑に積まれた新聞。テーブルに転がっているのは、炭酸水がはいっていた空瓶。
そして、一〇〇グラムのコーヒー豆がはいった小袋。
小袋には<トラスコ珈琲店>のロゴがある。買った店の店員を思い出すと、薄い笑みがもれた。
徐々に感覚が取り戻ってきた。自分の部屋を実感する。
我に返って左腕に手をやった。
ある……。汗で濡れた、むき出しの腕を肩から肘へとなでた。
肘の下すぐのところにある、肉が盛り上がっている傷痕を右手指の触感で確かめる。
斬り落とされはしなかったものの、これのせいで〝拭う者(wiper)〟としての信用を失い、キャリアは終わったも同然になった。
そしてこの出来事は、悪夢となって何度となく追体験させられた。
時間が経てば徐々に忘れていくというが、嘘だ。繰り返される悪夢が記憶を強化していった。
消えない傷痕を負わせた人間への怨嗟は、積みあがっていくばかりだ。疲労の抜けない身体を少しでも休めるため、早くに就寝したのに逆効果になった。
「くそっ!」
激憤を声にする。わずかばかりの苛立ちを逃したところで、電子音が鳴った。
ポケットベルだ。
たぶん仕事。慌てて脱ぎっぱなしのスラックスのポケットを探る。
違った。急いで灯りをつける。まぶしさに目を細めながら、別のスラックスからポケベルを見つけ出した。
小さな画面に出ていた数字は『49106』——至急、電話をよこせ。
黒電話の受話器をとり、慌ただしくダイヤルを回した。
ほどなくして出た相手から、最小限の単語で用件を伝えられる。やはり仕事だった。
それも願ってもない相手が関係している。手早く身支度をととのえる。
〝会社〟の金を着服した会計係を処分したあと、交野は逃げた。
想定外の邪魔がはいったせいで相棒は死に、自分も左腕に大怪我を負った。
この刺傷が原因で、左手の指から繊細な動きが失われた。怪我の治療とリハビリ、そしてほとぼりを冷ますために、動き慣れた土地を離れた。
もっとも、直属の上司とはその後もつながりを持ち、同業他社で食い扶持を稼いでいる。二流の烙印を押されても、自暴自棄にはならなかった。酒も煙草もやめ、この業界に残り続けた。
雪辱を果たしたい——。
その思いが通じたか、やっとかなうかもしれない機会がまわってきた。
シャツに袖をとおし、ほとんど右手だけでボタンをとめた。利き腕は右だから、左手に問題が残っていても、さほど不自由は感じなかった。
玄関ドアに鍵をかけるのももどかしく、廊下を走った。古い雑居ビルにエレベーターはない。階段で六階から一気に駆け下りた。小径を走り抜けて幹線道路に出る。流れる車の列からタクシーの行灯を見つけ、手をあげた。
黒塗りのクラウンが停まったとき、またもやポケベルの呼び出し音が鳴った。
すぐに取り出して確認する。画面を見て、唖然となった。
『104』。キャンセルの連絡だった。
棒立ちになったまま動かない客に、運転手が苛立った声をあげた。
「お客さん、乗るの? 乗らない……!」
運転席から上体をひねり、交野の顔をのぞいた運転手の顔がこわばる。交野の返事を聞く前からあたふたと後部ドアを閉め、車を車列の中に強引に割り込ませて走り去った。
タクシーなど意識の外で、交野はポケベルが軋むほど握りしめた。
なぜ、急にキャンセルされたのか?
計画の変更ならまだしも、別の人員に替えられたのなら、あきらめきれなかった。
電話で受けた仕事の場は、モラーノ・イム・絵里紗の家だった。
十五年前に殺し損ねた子どもだ。
エリサには、すでに接触していた。
胸元に四つ葉のネックレスを見つけ、間違いないことを確信した。同時に成人したエリサの姿に、長い時間の経過を実感した。
エリサの側なら、好敵手から仇敵となった北辻アンロソ・ネヴァがいるはず。
今回の仕事は、探す手間が省けるかもしれない好機。待ちすぎるほど待った機会だった。
いまを逃し、次があるかわからないチャンスを待つ気にはなれない。
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