二章
1話 餃子アートの家
その初老の男が廊下をいくと、点滴スタンドをひきながら歩いている患者までもが、よたよたと道をあけた。
渋面をうかべているであろう男の威圧感を背中に感じながら、
「こちらです」
小さくうなずいたアティリオ・ガリードが、乱暴にドアを引き開けた。
病室ドアの脇、監視役で座っていた開襟シャツの男が、ぎょっとして立ち上がる。胸元にあるポリスバッジを一瞥したガリードが、慣れた口調で命じた。
「出ていけ」
反論しようとした私服警官を式見は封じ込めにかかる。シルバーフレーム眼鏡を無意味に押しあげて、
「〝被害者〟を見張っているのですか?」
「ベットで寝ている三人を被害者という一面だけでみることはできません」
嫌味を含ませた問いを冷静に返した私服に方法を変える。式見は一転、腰を低くした。
「プライベートな話がしたいので、少しの間だけ席を外していただきたいのです。急な連絡で動揺したガリードの失礼は、大目にみていただけませんか?」
「親族の方ですか?」
「そいつが——」
ガリードが話に割り込む。いちばん奥のベットに寝ている、へたったモヒカンヘアの若者を顎でさした。
「わたしの息子だ。一〇分でいい」
「……ドアを開けたままなら」
刑事を廊下に追い出したガリードに、式見は素早くイスを用意した。目線の高さが近くなった顔を息子にむけたガリードが、父親ではなく、組織のボスとして訊く。
「制服警官でなく私服が見張りについている。この意味がわかるか?
セイジが緊張で硬くなる。くたびれて倒れてたモヒカンカットは、さしずめセイジの心中そのまま。息を呑んだ喉だけが上下し、何も言わないままうつむいた。
セイジについているオールバックが、足の怪我をおして立ち上がる。深く頭を下げた。。
「功を焦ったんです。おれが注意すべきでした」
「座ったままでいい、イグチ。謝罪より実のある話が聞きたい。時間を無駄するな」
ガリードの視線が息子に戻る。
「目立つことをするなと言ったはずだ。それとも他の目的があって暴れたのか?」
式見も注目する。
モヒカン頭もナイフを持つのも、セイジの精一杯の強がりだ。ボスの命令に従順なことだけが取り柄の扱いやすい子どもだった。これまでは。
「状況は理解しています。セイジは自分で——」
「イグチ! 訊かれてるのはおれだ!」
「声をおさえろ、セイジ。いちいち感情的になるから
「……はい」
「イグチをとがめる前に自分から説明しろ。そんなこともできんやつに<コルミージョ・クラン>を継がせる気はない。息子だからと跡を継ぐ必要もない。別の仕事を探せ」
「わかってる……」
ガリードの背後で、式見は黙って見守る。
お飾りのボスの方が何かと都合がいいのだが。
イグチは、ひそめた声での叱責を受けるセイジを見ていた。
セイジが<トラスコ珈琲店>に行ったことは、確かに勇み足だ。
事前情報が不十分だとわかっていて止めなかったのは、手柄を焦る失敗を経験させておきたかったからだった。
勝手に動けばボスの不況を買うが、ミナミを販売エリアとして復活させる案は、さほど重要視されていない。イグチがついている今なら失敗のフォローができるし、一度間違えば、セイジは同じ失敗を二度とはしない。
そういう意図があってのことだったのだが、
——他の目的があって飛び込んだのか?
ガリードが言ったことは、あながちはずれてはいない気がした。
<トラスコ珈琲店>に入ったセイジは、若い店員をしきりに気にしていた。
店員の方が本命で、商売の視察は体裁だったようにも思える。この判断は、店員をマークさせたキシの連絡を待つとして……
珈琲屋でもうひとつ気になったのは、若い店員と一緒にいた四十代ぐらいの女だった。
〝商品〟を扱っていた頃ならともかく、クリーンになった店なら、不要な類の人間だった。それがいたということは……
強力な地元組織の目をかいくぐりさえすれば、繁華街ミナミは裏の商売には打って付けの場所だった。撤退したと見せかけ、その実商売を続けている可能性は少なくない——
小さなノック音に思考を切られる。
開け放ったままのドアの横に立っていたのは、サングラスをなくしたエプロン髭。室内にボスの姿を認めてひるんだキシに、イグチは目で頷いた。入ってこい。
「店員の住処を突きとめましたが、それが例の物件で」
私服警官が病室をのぞき込んでくる。背中でつくった死角でナイフを返しながら言った。通報を受けた制服がくるより先に抜け出させたキシに預けたナイフだった。
声をひそめては余計な誤解を招く。イグチはボスにも届く声で応えた。
「正確に言え。どっちの物件だ」
「シマノウチ《島之内》です」
「確かなのか? あそこは——」
「あんな変な絵がある家、間違えませんよ」
よりによって島之内とは。
試用段階の取引候補から借り受けた保管スペースだった。二ヶ月は問題ないという話が変更になった連絡は受けていない。
セイジと話しながら、キシの報告も
「セイジがかまけた女が島之内を使ってるんだな?」
珈琲屋で見ていたセイジの様子では、ガリードが言う色恋のような軽いものではなかった。突っ込まれたくなくて、セイジははぐらかせたようだ。
いったい何を隠している? イグチはセイジを問うように見たが、視線をそらされた。
ガリードの決断は早かった。
「島之内の商品は今夜の取引の追加分として使う。式見、指揮をとれ。補充人員に
命令を受けた式見が、ポケットベルにメッセージを打ち込む。ふと思いついたような顔になると、座っているガリードに腰を折って訊いた。
「
「新入りにはまだ早い。交野なら慣れているはずだ」
「いえ、どちらが適任かという意味ではなく——」
さらに声を落とした。廊下で刑事が聞き耳をたてているとはいえ、仲間にまで聞かせないつもりか。
戻ってきたナイフを足首に装着する前かがみの姿勢で、イグチはひそかに眉をしかめた。
金勘定や取引の調整役として秀でている式見だが、どうにも虫が好かなかった。計算高く合理的なところに、かえって不審を感じた。
式見の言葉に、ガリードがようやく頷いた。
「尾形はいま
了承をえた式見が手配のために出ていくと、セイジが切り出した。
「店員がシマノウチの家から出かけたときを狙えば、穏便にいくんじゃないのか?」
「今夜の取引の時間は?」
「あ……五時間後……わ、忘れてない。店員は、その……殺すのか?」
ガリードの眉間の皺がますます深くなった。
手下に目配せする。キシが刑事の耳目をごまかすべく廊下に出た。
「死体の始末をどうするんだ? 殺せば仕事が簡単になるわけじゃない。その前に、うわの空で話を聞いていなかった、おまえの本音をさっさと言え。おれに隠せると思うな」
「……あの店員は生かしておけないんだ」
呆れと不愉快をかさねてがリードが口元を歪めた。
「今度はどんなヘマをした?」
「自分の不始末は自分でつける。だから、おれもシマノウチの回収に——」
「言葉だけ一人前はもういい。保管場所の管理もできんやつが口出しするな」
話はおわったとばかりにガリードが立ち上がった。荒い足音で病室を出ていく。
その背中を見送ったセイジが、シーツを握りしめ、肩を震わせた。
イグチはかける言葉をさがす。
*
エリサが間借りしている家は、バイト先から歩いて十五分もかからなかった。
暴力がらみのトラブルのせいで本当に疲れた。職住近接はこういうときにありがたい。あまりネヴァに頼らないようにしているのだが、今日ばかりは任せて先に帰ってきた。
ネヴァにどことなく不安を感じているくせに、こういうときは甘えてしまう。我ながらどっちなんだよと思わなくもなかった。
借りている島之内の倉庫家屋には玄関横にシャッターがある。そこに大きな餃子の絵のペイントがあった。
元は食品関係の会社の社宅か事務所にでも使われていたのかもしれなかったが、商号や屋号といったものはない。シャッターアートにしてはかなり微妙。
けれど実際に住むうち、この餃子の絵を見るとホッとするようになったのだから、慣れというのはすごいものだ。
スリット窓のついたスチールドアを開けて中にはいる。
一階のほとんどは倉庫スペース仕様で、がらんとしている。靴のまま家の階段をぐったりした足取りであがった。
二階フロアにくると、いつものかすかなニオイにつつまれた。
最初は気のせいかと思った。中古物件だから前の持ち主の荷物のニオイが残っているのかもしれない。ここを貸してくれたニルダが、毎日の換気を条件にしたのも頷けた。
ニオイはそのうち薄くなるだろう。エリサは気にせず三階へとむかった。まずはお茶を飲んで、一息いれたかった。
市内随一の繁華街がある南区は、周縁にいくほど事業所が多くなった。
夜の人口が少なくなるから、食事を買える店は軒並み閉まってしまうし、銭湯にしても一〇分近く歩く必要がある。それだけが少し不便だとエリサは思っていた。
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