9話 欲しかった言葉

 警官を迎えたネヴァは、身分証を確かめたくなった。

 入ってきたのは年齢不詳な警官だった。童顔なうえに、かなりの小柄。見た目と警官の制服とのギャップが大きすぎて、いっそ感動的だ。

「あ……クドーさん?」

 エリサが出てきた。

「……ああ、この人が言ってた警官?」

 頷きつつ、ほっとした様子を見せた。時々回ってくるという本人が来たようだ。

「お隣の韓国粥の店員さんから、通報もろてきたんですけど——」

 店内の状況をみたクドーが訊ねる。

「救急車、呼びはりました?」

「いえ、まだ……すいません」

「ええですよ、こっちで手配します。モラーノさんは、まず座って」

 倒れていたイスを起こすと、顔色の悪いエリサを座らせた。

「あなたも手のほかにお怪我は?」

 新たな声に、ネヴァは内心でぎょっとした。平静をよそおって振り向く。

 長駆の警官が、すぐそばに立っていた。

 気を抜いていたわけではないのに、こんなデカいやつに気づけなかったとは。ネームプレートには「リウ」の表記。

 考えていることをおくびにも出さずに応えた。

「殴られましたが冷やしておけば平気です。手の怪我も、店の救急箱で間に合い——」

「クドー、さがれ!」

 こちらの話を聞きながら、フロアの被疑者をぼんやり見ていたリウが急激に動く。ハンドガンを抜いて前に出た。

 痩せぎすの様子を見ようとしていたクドーが、俊敏に距離をとった。

 すぐさま相棒と同じ態勢をつくる。

 衣服のシワで気づいたか。腹這いにさせている痩せぎすのシャツの裾から、リウがナイフをとりあげた。

 治安がいいとはいえないミナミ管区の警官だけあって、目端が利く。

 とはいえ、薄いナイフにまで気づくとは意外だった。

 こういう手合いには関わりたくない。このあとに続いた聞き取りに丁寧に答え、逃げたふたりの特徴もつたえた。

 リウが無線で刑事を呼ぶ。ただの傷害事件にせず、組織犯罪係か捜査係にあずける手筈だ。これでソフトモヒカン・グループを掃除してくれることを願う。

 ネヴァは、被害者の口調で続けた。三文芝居をエリサが聞いていませんように。

「カタギの人には見えませんでしたけど、ナイフまで持っていたんですね」

 ここで一般的なパトロール警官なら「刺されなくて幸運でしたよ」と雑談的な雰囲気になる。

 しかし、やはりリウ巡査というべきか。一筋縄ではいかなかった。

「武器を隠していることを承知で対処されていましたか?」

「いえもう、そんなことまで気づく余裕はとても……。でも、どうしてそんなふうに思われるんです?」

「反撃の武器に、調理台のナイフではなく、カッティングボードを手にされています。『必死』な状態で、カッティングボードを使う人はめずらしい」

「…………」

 見破っているのか、カマをかけているのか。

 声も表情も平坦なリウから推し量ることが出来ない。

 ネヴァはこのまま一般人を装うほうにかけた。意図してやった物的な証拠があるわけではない。

「目に入ったのがカッティングボードだったんです。必死なあまり、ちょっとやりすぎたかもしれません。でも相手は五人もいたし、怪我をさせない加減なんてとても無理です」

 あくまで一般人の正当防衛だと主張したが、

「…………」

 無言にそえられたのは、鈍く射るような視線。

 もっとも、数瞬の間だけだった。すぐに眠たげにも見える、どこを見ているのかわからない目に戻った。

 気が抜けない。ネヴァは印象に残らないよう、ごくありきたりな台詞を心がける。



 エリサは、リウに少し苦手意識があった。

 何度か会ううちに慣れたのだが、リウの左目尻の傷痕を見るたびに、心臓が躍るように脈打った。

 派手な傷痕ではないから、見目が怖いわけではない。似たような傷痕がある人を想起してしまい、心がざわめくからだった。

 その人がエリサとどんな関係で、何をしていたのかどころか、顔すらおぼろげだ。なのに、これだけ気になるのは、それなりに関わりがあった人だと思うのだが……。

 それはともかくとして。

 エリサは、持ち去られたネックレスを取り戻したいとクドーに訴えた。

 小さい頃から持っていたものなら、高価というわけではないはずだし、怪我人もいる。アクセサリーのことなど後回しにされるかと思ったが、

「ボウズ頭いう以外に覚えてること、全部おしえてください」

 良心的な返事をくれたクドーに、持ち去ったであろうスキンヘッドの特徴を話す。いちおう、いなくなっているもうひとり、エプロン髭の男の容姿もつたえた。

「やっぱり病院いったほうがようないですか?」

 無線での手配をすませたクドーが訊いてきた。

「殴られたりしてないから大丈夫。病院より、早く家に帰って休みたい」

「その前にモラーノさん、もうちょっとだけ訊かしてもろても? つらなったら、やめますから」

「エリサでいいよ。なんでも訊いて」

 ネックレスの対応の礼だ。質問されるまま、騒ぎの顛末を話した。

「北辻さんひとりで、五人の相手をしたいうのは間違いない?」

 すぐに答えられなかった。

 突っ込まれて当然だ。一般的な女性が複数の男を押さえるなんて、まずはできない。

 ソフトモヒカンの若い男が、エリサのネックレスを奪ってからだった。それまでは静かだったネヴァが一変した。

「購買部調達チーム」の出張先では、警察が頼りになるとは限らない。

 自力での解決——。ネヴァだけでなく、調達チームに公言できないことがあるのは、話してくれたニルダの口ぶりからわかった。

 だから良心的な警官が相手でも、ストレートに答えたくなかった。

「ネヴァ……北辻さんは、あたしを守ろうと必死だったんだと思う。血が怖くて、まともに見てなかったから、詳しくはわからないけど」

 見ることができなかったというのは本当だった。

 血を見ると、震えや眩暈といった身体症状が出てしまう。

 出血の場面を恐れるあまり、転んで怪我をするかもしれないといった予期不安がおこることもあるそうだが、エリサにはそういったことはなかった。

 どちらかというと、血を見ることで、別の不安が呼び起こされるような感覚がある。

 ふと、クドーの容姿から疑問がうかんだ。外見で判断するおろかしさはわかっていても、暴力的なことに対処できているのか気になる。遠回しに訊いてみた。

「警官なのに銃を撃てない人っている?」

 この場を切り上げようとしていたクドーが向き直った。

「アカデミーで訓練しても、現場のすべてを経験できるわけやない。銃のことで言うたら、紙の的は撃てたけど、生身の人間相手やと固まってしもて動かれへんかったとか、たまに聞くなあ」

「その人はどうなるの? 辞めさせられる?」

「最終的には。けど、まずは撃てるように再訓練のチャンスがあるよ」

「まわりからバカにされない?」

「嗤うもんはおる。けど、アカデミーでやれることなんか、しれてるやん?」

 クドーが少しの間、考えるそぶりを見せてから続けた。

「たとえば、看護師さんも似たようなことあるんやないかな。働き始めてから血が苦手なんに気ぃついた、とか」

「う、うん……」自分だ。

「しょうがない思うで。血ぃいっぱい流してる患者なんて、実習で経験できることやないんでしょ? まして患者は、練習のための役と違て、ほんまに苦痛で唸ってたり、血の気失のうて顔色真っ白になってたりして、精神的にも圧迫してくるんやから。

 場数さえ踏んだら誰でもできるなんて単純なもんやない。どんだけ頑張ってもできへんのは努力不足とかやのうて、個人的な事情のせいかもしれへん。情けないとか言うてバカにするやつがおったら、そいつこそ他人を思う想像力のないアホやで」

「…………」

 正直になってエリサは訊いた。

「どうして……ほしい言葉がわかったの?」

 看護師を辞めたのは、血が苦手——怖いと気づいたから。

 働き始めてから気づくなんて、どれだけ鈍いのかと、ずいぶん落ち込んだ。

「看護師やったいうの、初めておうたときに聞かしてくれてたで?」

「そうだっけ?」

 店先の掃除をしていたとき、警ら途中のクドーに声をかけられたのが最初だった。クドーの話のリズムにつられて、初対面から会話がはずんだ。

「せやから、あたしへの質問は、さっきの血が出たんが怖かったいう話とあわせてみて、こういうこと訊きたいんかなぁと。おうてた?」

「うん。ありがと、ちょっと気が楽になった」

「あたしが思うんは、誰でも苦手なもんはあるいうて流してええ場合と、考えたほうがええ場合があることかなぁ」

「うん、そこなんだよね……」

 エリサの視線が、リウと話しているネヴァへと動いた。

 心の奥底で感じる、ネヴァへのざわつきの答えと関係があるんだろうか……。


     *


 高すぎる身長は不便もある。

 定番では、ドアの上枠に頭をぶつけたり、外泊先のベットで足がはみ出たり。

 こういったことはともかく、警ら課の警官としてはプラスに働くほうが多かった。

 柾木は、屋台がならぶ通りをスガヌマとともに歩く。

 平均より二〇センチ以上高い身長は、こういうときに利点を発揮した。

 屋台客や通行人にもまれている平均的身長のスガヌマの隣で、新鮮な空気にありつく。同時に高い視点から、周囲を観察できた。

 内勤署員も含めてなお、ミナミ分署一小さい同僚は、雑踏警らをどうしているのかと思う。人波にのまれているのは間違いないだろうに、成果は他の警官とかわらなかった。

 周囲を見通していた柾木の目が一点でとまった。

 のんびり歩く人間が多いなか、かき分けるように進んでいく男がいる。

 ——一七〇から一八〇前後、黒っぽい上下、スキンヘッド、片方の耳に複数のピアス。

 ついさっき無線で周知された、窃盗の疑いがある被疑者と特徴が一致する。

「スガヌマ、左斜め前方の——」

「あそこのふたり、危なそうです」

 スガヌマが右前方にある屋台を見て続けた。

フォー米粉麺の屋台、二十代の若い男性ふたり、口喧嘩から殴り合いに発展しかけてます。いきましょう」

「待て!」

「げふっ」

 駆け出しかけたバディの襟首を引っつかんで止めた。

「……なんで?」

「左斜め前方一〇メートル先、手配中の被疑者らしき男がいる。こっちが先だ」

 スガヌマの視線も被疑者をとらえた。

「女性のネックレスを奪ったやつですね。でも、屋台のほうも危険です。二手にわかれますか?」

「アホウ! ミナミの真ん中で追いかけるのに一人じゃ、まかれるだろ!」

 そこいらじゅうにある横道や抜け道の数だけ逃げ道になった。

「屋台のケンカは、店主か客が、通報なり仲裁なりする。ボウズ頭が先だ」

 話しながら柾木の足は、すでにスキンヘッドにむかっている。スガヌマが従った。

 慎重に追う。

 柾木の身長はメリットがある反面、デメリットもある。目立つのだ。

 現に、スキンヘッドが迫ってくる柾木にすぐ気づいた。通行人を突き飛ばしで走りだした。

 ミナミでどれだけ効果があるか疑問でも、柾木は規定どおりに警告の声をあげた。

「警察だ、止まれ!」

 警告が反対の行動をひきおこすことは、ままある。ご多分にもれず、スキンヘッドが逃走のスタートダッシュを切った。なんのための警告なんだよと思う。

 柾木としては、被疑者に向かっての警告というより、周囲の人間への注意喚起という意味をつけていた。

 逃げることに必死な被疑者に巻き込まれて、転倒事故がおこることもある——と自己流解釈しないと、バカバカしくてやってられない。

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