7話 クリムゾンの記憶

 海外出張というと、いまだシルエットも美しいスーツに身を包んだ一握りのエリートがいくものといった、華やかなイメージを抱く者がいる。

 実際は工場稼働やインフラ整備で、過酷な自然環境のもとに赴くことがあるし、ホテルのベッドで眠れるとは限らず、ベッドシーツをめくれば蛇がいることもある宿泊施設で夜を過ごす出張もある。

 ネヴァが出張でまわっていたのは、コーヒー農園とケシやマリファナの畑が、耕作面積を競い合っているような土地だった。そういった畑を管理しているサブマシンガンを持った連中と、時に取引することも仕事内容に含まれていた。



 十五席もない狭い店内なら、数にまかせて取り囲まれる危険は少ない。ひとりで五人を相手にする不利も、ネヴァはテーブルやイスが直線の動きを阻むスペースを利用した。

 まずはいちばん近い間合いにいた痩せぎすから。ナイフを出す前にカッティングボードで頭を張って昏倒させた。

 続けてエプロン髭が背後からくる。

 ネヴァは身体を低くして振り向く。威圧的外観のサバイバルナイフをかわし、水平にしたカッティングボードを脇腹に叩き込んだ。

 返すボードで顔を叩く。サングラスが割れ飛んだ。

 エプロン髭に構った隙に、オールバックに羽交い締めにされた。力づくで両肩を締め上げられ、カッティングボードを落とした。

 無防備にされたところでソフトモヒカンが拳をふるってくる。

 一発目は甘んじて受けた。

 調子にのって二発目のための拳をひいたところで足を飛ばす。足首のスナップをきかせ、股間の〝球体〟を胴体に押し込む要領で蹴り上げた。

 蹴りと同時に、重心を後ろに傾ける。

 後頭部を使った頭突きを背後のオールバックに入れた。

 羽交い締めがとけたのは、頭突きが効いたからではなかった。肩を押され、オールバックに正面をむかされる。鼻血が流れるままにしたオールバックから右フックを食らう。吹っ飛ばされた。

 転倒した拍子に、床に散乱していたソーサーで手を切った。その手で破片をつかむ。

 蹴り飛ばそうとしてきたオールバックの足に突き刺した。そのまま破片を筋肉の奥へと捻じ込む。

 オールバックが低い悲鳴をあげて膝を折る。

 入れ替わって立ち上がった。四つん這いになった頭に、サッカーボールキックを入れた。

 動きを封じたところで、背中にイスの直撃を受ける。

 目を向けた先にいたのは、ソフトモヒカン——エリサに手を出したチンピラだ。

 怒りの感情が、ネヴァの痛覚を麻痺させる。

 学習しないモヒカンが再度イスを振りあげた。ガラ空きになった腹に、右のボディブローを入れた。

 股間を蹴り潰さなかった温情がわからないなら、もう手加減する必要もない。続けざまに左を——いちばん折れやすい肋骨下部に突き入れた。

 これだけで終わらせる気はない。

 涎をたらして腹を抱えたソフトモヒカンを右アッパーですくい上げる。

 


 エリサは動けずにいた。

 スタッフルームにいけば通報ができる。なのに、ネヴァから目を離せずにいた。

 体格も数も不利。なのに暴れ出した五人を相手にするネヴァの動きは、素人目にもケンカ慣れしているというレベルには見えなかった。

 ネヴァの海外出張先を考えると、暴力沙汰に慣れていてもおかしくはない。

 けれどこれは護るための暴力ではなく、相手を壊すための暴力だ。

 力での排除……

 目の前のフロアで繰り広げられている光景が、エリサの記憶の奥底を刺激する。

 引き寄せられない記憶と、ネヴァの後ろ姿は、どこかで重なるものがあるような……

 思いだ出せそうな気がした。

 思い出すことで、エメリナの子守唄の続きもわかりそうな気がした。とても大切な言葉だったと思う。

 オールバックの男が、ネヴァに足を刺されて流血した。流れる赤を見た途端、エリサの目の前が白くなった。

 一面の白から、じわりと赤が滲み出してくる。

 赤が溢れて広がっていく。

 鉄錆にも似た臭いとともに大きくなっていく赤が、さらに濃い色味の深紅色になり——

 手の先が冷たくなる。

 身体の先端から、痺れてくる。

 感覚が徐々になくなっていく。

 呼吸が浅く、早くなる。身体が酸素を無闇に求めていた。

 血を見たせいだ。



<トラスコ珈琲店>で働く以前、エリサは看護師だった。

 よりによって実習の場に入って初めて、流れ出す血への恐怖を自覚した。

 怖いなんてものではない。血を見ると、気持ちも身体もすくんでしまう。結果、新人看護師として働き始めてから、わずか二ヶ月で辞めてしまった。医療ミスを起こさずにすんだことだけは幸運だった。

 血の苦手意識を慣れで克服する人もいた。けれど、思い当たる原因を考えたエリサは、慣れに期待できるとは思えなかった。

 職場の環境が良くて、スタッフの定着率もいい。それだけに周囲から不思議に思われたし、病院側も引きとめようとしてくれた。ハラスメントはもちろん、個人の事情でもなんでも相談にのると。

 本当のことが言えず、親類から仕事を手伝ってほしいと懇願されていると嘘をついた。二重に自己嫌悪になった。

 成人するまで育ててくれた叔母、塚田イム・ニルダにも訳を訊かれた。

「しょうがないことだね……」

 ニルダも両親が殺されたときの状況を知っている。正直に話すと、あとは何も言わずにいてくれた。

 しばらくして、迷いながら切り出してきた。

「うちの系列の珈琲店で働いてみる? そしたら、病院に嘘を言ったことにならないでしょ? 身体を動かしていた方が気が紛れるんじゃないかな。店の仕事が合わなかったら辞めて、ほかを探すぐらいの軽い気持ちでいいからさ」

 こうして血を見る場面から離れたが、傷口を絆創膏で覆っただけにすぎなかった。絆創膏が剥がれれば、開いたままの傷口に痛みがはしった。

 血を見るだけでこれだけ動揺してしまうのは、欠けている記憶と関係があると思う。

 幼かった自分は、生々しくも鮮烈な深紅色のなかで何を見たのか。

 どんなことを感じとったのか。

 頼りになってやさしいネヴァなのに……言いようのない不あんのたねをおぼえるのは……

「エリサ……エリサ! わたしを見て。もう、大丈夫だから」

 ——大丈夫

 どこかで聞いた気がするのは、ありきたな言葉だからではなくて、ネヴァが……

「悪かった。護るつもりが怖い思いをさせた。ごめん」

 エリサの瞳に焦点がもどってくる。

 あのときと同じ、憂患とおそれがまじったネヴァの顔が、すぐ目の前にあった。

 あのとき……?

 求めているもののシッポが見えた。

 しかし、苦手なものほど、わずかであっても反応してしまう。つかみかけた記憶のとっかかりより、目の端にうつった赤いものに気をひかれた。

「手——ネヴァの手、切れてるよ! 怪我の手当てしなきゃ!」



 ふらつく足でスタッフルームの救急セットを取りにいこうとする。ネヴァは慌ててエリサを引き止めた。

「そんな青い顔した人に手当てさせられない。これぐらい自分でできるよ。わたしよりエリサは? 苦しいところは?」

「平気。落ち着いてきたから……」

「よかった。歩けるなら、すぐ家に帰って。店のことは、わたしにまかせて」

 エリサに考えさせまいと、やることを具体的につたえた。

「ニルダが新しく借りた事務所スペースにいるんでしょ? あとで様子を見にいく」

 床に転がしているソフトモヒカンその他をどうにかしないといけなかった。

 警察に回収してもらうのが簡単だが、通報すればあれこれ訊かれる。ネヴァの身の上としては、極力関わりをもちたくなかった。

 会社に連絡して、〝掃除係〟をよこしてもらうつもりでいた。

 気になるのは、スキンヘッドとエプロン髭の姿が見えないことだ。かといって、ふたりを追う手立てもないのだが。

 スタッフルームで帰り支度をととのえたエリサが出てきたとき、店のドアが開いた。

「南方面分署です。通報があったんで入らしてください。何もなくても確認せんとあかんので」

 地元訛りの見本みたいなイントネーションの警官がやってきた。

 サイレン音が聞こえなかったのは、フットパトロールの警官がきたせいか。エリサを先に帰したかったのに間が悪い。

 オールバックは拳で気絶させ、ソフトモヒカンは床をベッドに脂汗を流すばかり。痩せぎすが持っていたナイフはパンツの腰に戻してある。暴力から身を守った結果であることを主張するための体裁を先に整えておいたことが功を奏した。

 パトロール警官のなかには、カンのいいやつがいる。

 ありきたりなスーツ姿で無害をアピールしても、ちょくちょく職務質問に呼び止められるネヴァは、渋面を抑えて警官コンビを迎え入れる。

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