4話 意味は「幸運」だけじゃない
「ネヴァ、あたしの仕事をとらないで」
ドアに『CLOSED』のサインプレートを出し、スタッフルームからホウキを出してきたネヴァをとめた。
このやりとりも何度目になるかわからない。放っておくとスーツのジャケットを脱いで拭き掃除まではじめてしまう。
<トラスコ珈琲ミナミ店>でのバイトをはじめると、ネヴァが店まで様子を見に来るようになった。言い分は、
「素性が悪かった店だから。なんでニルダは話さなかったかな」
「ニルダから聞いたし、紹介しながらも迷ってた。でも、警察に目をつけられてたのは昔の話でしょ? 承知のうえで受けたのは、あたしだよ」
これで折れてくれたと思ったのだが、甘かった。時間をつくっては本来の総務課仕事を早々に切り上げ、客としてコーヒーを飲みに来るようになった。
「総務はその実、何でも屋になってて忙しいって聞いたよ。コーヒー飲み終わったんだし、早く帰って休んで。週末はまだ先なんだし」
「忙しいのは優秀な社員だけ。わたしはヒマしてるから疲れてない。閉店作業が終わったら、ついでにエリサを送ってく」
「ずっと海外調達チームで無理してきたんだし、楽にしたら? 喫茶事業部の仕事までしなくていいよ。ひとりで帰るときだって、人通りが多いとこ選んでるから大丈夫」
コーヒー生豆の生産地は、治安が悪いことがある。そんななかをネヴァは、買い付けや契約農園の開拓に走り回ってきた。ネヴァがヒマしてるという勤務状況は、<トラスコ・グループ>安定の基盤を築いた社員への慰労だ。そこにエリサも賛同したかった。
エリサは徒歩通勤だが、通勤路に不安が少ないから夜シフトをやっている。
一〇分ほど歩けばミナミの繁華街の賑わいがあった。おかげでこの周辺も、夜更けでも人通りがあるし、徒歩やパトカーでまわっている制服警官にもちょくちょく会う。
「そうはいっても、ストーカーはまだ捕まってないじゃない」
「それなんだけど……」
洗い物の手をとめ、宙を見つめてここ数日を思い出した。
「見られてる気がするっていうだけで、姿を見たわけじゃない。気のせいだったのかも」
「気のせいでも、ストレスがかかってる。ひとりでいない方がいい」
ネヴァの心配はストーカー行為以上に、ストーカーされているかもしれない不安で、エリサの症状がぶり返すことだった。
「ネヴァは気にしすぎ。家族を亡くした当初は問題もあったけど、今はなんともないし」
「なんともない」は少し誇張がはいっていた。ただ、こうでも言わないとネヴァの心配性に歯止めがなくなってしまう。
「気持ちは嬉しいけど、あたしのことより自分のことにかまけてほしいよ。夕食もとらずにコーヒー飲んだりしてないで」
「どうせ眠れないからいいんだよ」
ネヴァはずっと不眠症だった。
「歳のせいにしてないで、一度は診てもらった——」
「そのネックレス、四つ葉のデザインが古臭い。就職祝いに新しいやつプレゼントするから今度見にいこう」
受診のすすめは聞こえなかったことにして、あからさまに話題をかえてきた。
不眠症のことにふれられたくないのか、いつも最後まで言わせてくれない。病気は繊細な問題だから、当然といえば当然なのだけれど。
「エリサの休み、明日だよね? 仕事を早めに切り上げてくるから、夕方からどう? そのあとで食事も」
水回りを拭いていた手をとめ、エリサはネヴァの顔をじとりと見る。
「あたしのシフトをそこまで把握してる……ストーキングの気配を感じるのって、もしかして——」
「違う、誤解しないで! たまたま今日、スタッフのシフト調整みてたからで」
「ごめん。からかった」
こういう反応を見ていると、決して悪い人ではないのだが……
「エリサ?」
「うんん、なんでもない。ネックレスはこれがいい。食事だけでもいい?」
「もちろん」
トップにハート型の濃緑色のネフライトが四つ配置されたペンダントを子どもの頃から持っていた。
ただ、誰からもらったものなのかは覚えていない。
贈ってくれた人はクローバーの花言葉を、ネックレスが象徴する意味を、わかっていてプレゼントした……は、子どもが相手では、さすがにないはず。
子ども相手だから、わかりやすい四つ葉のデザインのものを選んだように思えた。
もらったエリサは、ずっと大事にしたいと思ったことだけが記憶に残っている。
「テーブルを拭いたら終わりだから、ネヴァは先に帰ってて」
用意した布巾を当然のように受け取ろうとしたネヴァの手にエリサは気づかないふりをする。カウンターを出ようとして足がとまった。
閉店のプレートをかけたはずのドアが開いた。
「なんだよ、狭苦しい店だな」
アルコール臭をただよわせた五人の男が入ってきた。当たり前のことをわざわざ言っているあたり、完璧に酔っ払っている。
閉店を理由に追い返そうとしたネヴァをエリサはとめた。『CLOSED』のサインプレートを読まずに入ってくる酔っ払いに、常識は通用しない。
「ネヴァ、いいよ」
強引に追い出そうとすると、余計に突っかかってくることがある。悶着になって暴力沙汰になるのは避けたかった。酔い覚まし以外の目的があるタチの悪いやつなら通報すればいい。
短い看護師勤務のなかでも、身勝手な言動や、理不尽なクレームをぶつけてくる患者を経験して、こういう手合いは慣れていた。
適当に飲ませて帰らせる。これがいちばん無難なはず……。
ネヴァとしては、すぐさま追い出したかった。
<トラスコ・グループ>の輸入元となるコーヒー農園は、すぐ隣で現地マフィアが麻薬栽培しているといった具合に、治安に問題があるところが少なくなかった。
そういう環境下で仕事をこなしていれば、鼻も利くようになってくる。
入ってきた五人組——正確には年かさの一人が、とりわけきな臭く、厭な感じがした。
そしてなにより、若いがリーダー格らしいソフトモヒカン頭の男が気に入らなかった。
店内を見るふりをして、何度もエリサをうかがっている。わいせつ目的の目つきではないが、それがかえって不安要素になった。性的接触というわかりやすい意図なら、手を伸ばした時点で叩き出し、排除できるのだが。
しかし、エリサは客として扱うほうを選んだ。店員としてのエリサを尊重したい。
ネヴァは忍びやかにスタッフルームに入った。事前の策を用意するため、経営責任者であるニルダに連絡を入れようと受話器をと。ニルダなら〝人員〟を最短時間で動かせる。この時間なら自宅のはずだ。
出ない。呼び出し音が鳴るばかりでしかなかった。
自分で直接、会社に要請しようかと思ったが、その間、エリサひとりで五人の相手をさせるのも不安だ。
取り越し苦労であることを願いつつ、店内へと戻った。
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