3話 ずっしりライスボール

 裏道にあるのは呑み屋ばかりではない。

 エリサのバイト先である<トラスコ珈琲ミナミ店>も、探さないと見つけにくい場所にあった。

 にぎやかな表通りから折れ、さらにまた横道にはいる。裏路地店舗に通りすがりで入ってくる客は少ないが、地元住民やリピーターを獲得できれば生き残れた。

 密集する零細店舗は、呑み屋を中心に、さまざまな業種がいりまじって展開していた。

 トラスコ珈琲の右隣は韓国粥の専門店で、松の実粥や海鮮チヂミといったメニューの案内が掲げてある。左隣には麺料理中心のベトナム料理店。その向こう側に『純喫茶』の看板を掲げた店があった。「喫茶店」とどう違うのかエリサにはわからない。

 そういった喫茶店も含めて、このあたりは隠れ家的な店構えが多く、店の中がうかがえないつくりになっている。

 トラスコも似たような外観だった。

 ただし、一見さんを遠ざけて落ち着いた雰囲気をつくりだし、常連客を確保するためだけではない。

 この店をエリサに紹介してくれた人が迷ったのも、そこに訳があった。



 もうすぐ午後十時になろうかという時刻。

 店の前の人通りもまばらになりつつある。最後の客を送り出したエリサは、調理スペースの片付けをはじめた。

 この頃、エリサひとりで夜のシフトをまかせられることが多い。

<トラスコ珈琲店>は十五席に満たない小さな店舗だ。コーヒーはともかく、フードメニューはトーストや日替わりの焼き菓子ぐらいしかない。

 それでも淹れ方の基本を覚えただけのバイトに委ねるほどのスタッフ不足だった。

 ただ、エリサよりコーヒー知識が深い常連客の多くは、不足を笑って許してくれる寛容さがある。

 繁華街が近いため、夜になっても客が途切れることがないし、豆や用具の類だけを買いにくる客もいる。そこそこ忙しくても、あたたかい雰囲気の中で仕事ができた。

 先ほど来た客も、いつも豆だけを一〇〇グラム買っていく。

 カジュアルシャツとチノパンが定番なので、自営業かもしれない。ベースボールキャップからのぞくのはグレイヘアだが、声には張りがあって年齢も読めなかった。

「サマになってきましたね」

 豆を量って包装するエリサの手元を見ながら笑いかけてきた。豆をこぼしたり、何度も量り直したりの無様をさらしたお客のひとりでもある。

「はじめて二ヶ月になりますから。いい加減こなさないと、クビになっちゃいます。お支払いは、いつもので?」

「ええ。豆でもチケット使わせてくれるから、手間がなくて助かりますよ」

 太い黒セルフレーム眼鏡の奥にある瞳を柔らかく細めた。

 エリサは、レジ横に吊り下げられている大量のコーヒーチケットの中から「コウノ」をとる。本人の目の前で一枚ちぎった。

「いつも、ありがとうございます」

「ではまた」

 言葉が少なくても、やわらかな物腰のコウノとのやりとりは、ほっとする。

 このところ感じるようになった気がかりすら忘れることができた。

 


 かつてないほど勉強して、やっとなれた看護師だった。

 なのに早々に辞めてしまい、落ち込み気味なエリサにとって、ちょうどいい人付き合いと時間の流れが<トラスコ珈琲店>にあった。

 そこをわかっていて叔母、塚田つかだイム・ニルダが紹介してくれたのだとエリサは思う。

「人手がすぐ欲しかったから利用しただけよ。恩に着ることなんてないからね」

 両親を亡くしたエリサをひきとってくれたのも、このニルダだった。

 亡くした父と同じ会社——喫茶事業も展開する<トラスコ・グループ>で働いていて、当時はまだ結婚すらしていなかったのに、エリサを迎え入れてくれた。

 子育ての経験がなく、家事も不器用。まだ七歳にもなっていない子どもをひきとれば、失敗の連続になるのは目に見えている。

 けれど、そこを笑い話にする大らかさがあった。

 学校で弁当が必要になったとき、不揃いなライスボールと、トルティージャ(厚焼きオムレツ)をぎゅうぎゅうに詰めて持たせてくれたことがある。

 ライスボールは固く、トルティージャはオムレツというより、ベーコンと玉ねぎのスクランブルエッグに近い。ベーグルみたいにずっしり噛みごたえがあるライスボールと、ポロポロこぼれてしまうトルティージャだったが、とても美味しかった。

 料理や洗濯が下手でも、一生懸命むきあってくれる人の愛情は子どもだからこそわかる。ふたりだけの家庭でも、エリサは寂しい思いをすることはなかった。

 ちなみに、トルティージャ弁当を持たせてくれた日のニルダの朝食は、山盛りのスクランブルエッグだった。

 そして、こんなふたり家族から一歩離れたところに、もうひとりの女性——北辻きたつじアンロソ・ネヴァがいた。

 着ているのはいつも無彩色の地味なスーツに白いシャツ。

 この人にとってのオシャレは、宇宙旅行と同じぐらい縁がないものであるらしかった。

 母、エメリナと旧知の仲で、エリサが幼い頃から家にも出入りしていたのだと聞いた。あんな事件がなければ、ちゃんと覚えていて、もっと心安い存在になったのかもしれない。

 事件で両親の死を目を目の当たりにしてから、一時期の記憶が曖昧なままだった。

 エリサが受けた診断は、心因性の記憶障害。

 このせいなのか。ニルダに負けず劣らず世話をやいてくれるネヴァなのに、心奥では漠とした不安を感じてしまう人でもあった。

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