中編1:箱の中へ

 未観測世界は『箱の中』と呼ばれる。シュレディンガーの猫の『箱の中の猫』のように、観測されるまでは『異世界が存在するかどうか』定まらないからだ。

 では、どうやって観測するのか。

 時空場方程式によって求まるのは、結局『そこに異世界が存在する確率の濃淡』までだ。それは方程式の解ではあっても、観測ではない。

 量子スケールの問題であれば素粒子の崩壊・衝突などを文字通り観測することもできるが、異世界同士が相互作用する様子を『基軸世界』から観測する方法は、基本的にはない。もっとも、超弦同士の作用から異世界の直接観測に至った事例も初期にはあったというが。

 結局のところ、人間原理による方法――まず観測者たる人間自身が『試しに転移してみる』のが『危険だが確実』、ということになるのだ。

 そういうわけで、俺たち時空探検家の出番だ。無論安全性を確立し、発見の確からしさを追試する意味では二回目以降の探検だって有意義なのだが、特に『箱の中』を最初に踏むことができる状況というのは、探検家の心を沸き立たせる。名声、名誉、界図の筆頭筆者としての権利から得られる富。成功の見返りは幾つかあるが、何よりも得難いのは『初雪を踏む感触』。基軸世界においてはまだ誰も知らない世界を自分が初めて目にする、というその事実自体が何よりの報酬だ。

 もっとも、俺自身、冒険家としてはそうキャリアが深い訳ではない。三回目以降の『追試』行がほとんどで、『箱の中』は初めてだ。異世界旅行会社を起業した知人に『「箱の中」を算出した。自分で挑戦しようと思う』と話したら鼻で笑われたくらいだ。どうせそう話したことすらあいつは覚えていないのだろう。クソったれ、帰ったら鼻からパスタ喰わせてやる。


 ※ ※ ※


 転移服、というと大仰だが、要は『一人乗りの航界機』だ。服というほど服のサイズでは無くどちらかというと幌のついた車両に近い形をしているが、慣例的に服と呼ばれ続けている。傷、破れなどが無いことを念入りに確認する。

 その後、これにあらかじめ時空場方程式に則って『行き先』を入力する。厳密にいうと、変数を幾つか指定することで『解として求まる異世界存在確率の群』を指定するのだ。AIの補助があるとはいえ、それなりの数学知識は要る。数字を読むのすら苦痛だと、時空探検家は務まらない。何より、数学が分からないと、『今証明しようとしている解』が初出のものなのか既出のものなのか、即ち『箱の中』を求めるのか既存の異世界を求めようとしているのかすら分からない。

「うん――間違いない。『箱の中』だ」

 転移服から演算結果が返るのを確認する。既に業界誌に俺の動向を報じられているので、ここにきて計算間違いでした、では大恥である。

 手荷物を確認する。世界撮影に用いるアナログカメラとフィルム数巻(迷信なのだが、デジタルカメラは時空場に干渉すると探検家の間で噂された時期があったので余り好まれない。信じる訳ではないが、電池切れのリスクを考えれば俺もアナログカメラの方が良かろうと思う。物理法則が共通で科学技術が同等まで進んだ異世界であっても、充電規格まで同じとは限らないのだ。その点アナログカメラは物理法則さえ共通なら動作はする)。記録用のアナログの野帳と鉛筆(タブレットやホログラフビューアーでは無いのはカメラの場合と同様、電池リスクを考えるからだ)。数日分の圧縮食料と組織化水。外気・環境の測定機材(使い捨て試薬がほとんどだ)。圧縮タオルと圧縮肌着等々。

「さて、やりますか」

 軽く頬を叩く。泣いても笑っても、失着したとしても本番だ。

「記録開始。時空場、事前に入力した変数に基づき展開」

 転移服の幅程度の時空場が広がる。外から見たら虹色のシャボン玉にでも入ったように見えるだろう。異世界に転移しようとする空間は、『基軸世界』からの光学作用としては量子化して曖昧な存在に映るからだ。

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