箱の中の世界

歩弥丸

前編:箱の外

 その日、朝から新世界旅行社の代表は、立体ビューアで何やらページを捲っていた。

「へー! あいつ『箱の中』に挑むのか! すげえな!」

「マスター、何の話です?」

 声を掛けたのは、生身の女性だった。

「おう新入り。『マスター』って呼ぶのは機械だけでいいんだ。お前は人間なんだから『マスター』は止めな。『代表』か『社長』でいいんだよ」

 聞かれた話にではなく、声の掛け方に答えた。

「じゃあ代表。『箱の中』って何です」

 少し眉根を寄せて、新入りは尋ね直した。

「そんなことも知らないでこの業界入ったのかよ」

 呆れ顔で言い返されるが。

「新入りだから知らなくて当たり前ですぅー!」

 と言われれば答えない訳にも行かない様子で、代表は語り始めた。

「今な、『異世界旬報』読んでたんだよ。業界誌な。そうしたら自分もよく付き合いさせて貰ってる異世界探検家がな、未発見の世界に挑むって記事が出てたんだよ。未発見の世界を業界では『箱の中』って言うんだ。新入り、『シュレディンガーの猫』って知ってるか?」

「えーと、どこにでもいてどこにもいないよく分からない猫耳の軍人」

 新入りが思い浮かべたのは旧世紀のメガヒット漫画のキャラクターだ。居たんですよ。居たんですってば。

「それ『シュレディンガーの猫』を元ネタにしたフィクションの産物な。元々はシュレディンガーって学者さんが言い出した旧世紀の思考実験……まあ例え話だ。超ざっくり言うと」

 『異世界旬報』のイメージをホログラフから弾き出すと、代表は図を空に描き始めた。放射性物質が放射線を出す様子、それがスイッチを押して回路が繋がり、箱の中に毒ガスを出す様子。そして、箱の中には、猫。

「『量子力学なんてモンが現実ならば、「毒ガスが出るか出ないか放射線を観測するまで確定しない箱」に入れられた猫は「箱を開けるまで生きてるか死んでるか分からねえ」ってコトになるじゃねえか、そんな訳あるかい』って話。それが何だかんだで量子力学の方が正しいってなると、例え話の意図とは逆に『量子力学を象徴する例え話』として言い触らされるようになったんだよ」

「で、何で『箱の中』なんです?」

「そこからだったか……。いいか、『異世界旅行』やら『異世界転移』を可能にしている理論は、大元を辿れば量子力学に行き着くんだ。『多元世界の量子的記述』『時空場理論』。ざっくり言うと、」

 代表は、シュレディンガーの猫の回路図を描いたホログラフを弾き飛ばすと、そこに指で雲の形を塗りつぶした。

「『基軸世界』とは異なる世界が存在する『確率』が雲の濃い薄いみたいな感じで『基軸世界』とは少し離れたところに漂ってると思え、って話さ。量子力学が『光と波の性質を併せ持つ素粒子』をそれらの存在する『確率』の濃淡で描くような感じでな。その『異世界の存在確率』を力場と捉えて数学的に記述したのが『時空場』。航界機の動くときに出てくるアレよ」

「ただのバリアだと思ってました!」

 新入りが真顔で答えるのを、代表は受け流す。

「はいはい正直正直。で、量子的に記述している以上、『観測するまでそこに本当に世界があるのかどうか確定しない』。勿論自分らがお客様を連れて旅行するような異世界はとっくに『観測』されて存在を確立しているわけだが、探検家たちはそうなっていない世界を『観測』しにいく。何人もが『観測』して、存在が確立して、初めて安全に異世界転移も旅行も出来るようになるってワケさ。で、まだ探検されてない、存在の確立していない『確率上だけの世界』のことを『箱の中』って呼ぶわけよ。まだ生きた猫が出てくるか死んだ猫が出てくるか分からない、ってね」

 説明の内容を新入りは理解したのか、どうなのか。

「バッファローが出てくるかも知れませんね」

 とこれまた真顔で答えた。

「あーまあ、うん」

 窓の外、社屋の庭にはバッファローがいる。見た目は普通のバッファローのように見えるのだが、これは社外秘なのだが、『バッファローばかりが大量生息する異世界』から基軸世界に紛れ込んでしまった、異世界バッファローである。

「多分な、あのバッファローも偶々『余りにバッファローが大量に居た』がために確率論的な試行を時空場に対して繰り返した格好になって、『バッファローが基軸世界に行った』確率を奇跡的に引き当てちまったんだよ。そもそもな、航界機が世界間ジャンプをするときにやってる動作も、理屈上は『大量のバッファローによる確率論的試行』と変わりゃしない。ただ、あらかじめ演算を重ねて、観測結果を参照して、効率良く時空場を広げて成功率を引き上げてるだけなんだよ」

 聞いているのかどうなのか、異世界バッファローはのんびり草を噛んでいる。

「ふーん。……それにしても代表、お客様の前にいるときと全ッ然口調違いますね!」

「ッたり前だ! お客様と金の為なら丁寧語も猫撫で声も何でも使うってんだ」

『だったらお客様の前で「クソ」は止めましょうね、マスター。苦情来てましたよ』

 突然、秘書AIの合成音声が挟まった。声を掛けるタイミングを伺っていたらしい。

「ほっとけ!」

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