第161話 取引
「……気配を消すことにはそれなりの自信がありましたが、流石第三王女様の懐刀といったところですね」
そんな声と共に姿を現したのは、この国を支える大きな家であるフローレンス公爵家の令嬢でありながら、ルクスの学友でもあるフローリア・フローレンスだった。
「生憎、それらのことは私の専門ですので、そう簡単に出し抜かれてしまうわけにはいきません」
「ふふ、私もまだまだ、ということですね」
そう言って少し口角を上げると、フローレンスはバイオレットに近付いてきた。
そして、二人が向かい合うと、続けてフローレンスが口を開いて言う。
「ご理解されているように、私は第三王女様の懐刀……バイオレット様にご用事、というよりはお話があって参ったのです」
フローレンスにルクスから自らの名前を聞くよう促したのはバイオレット自身のため、フローレンスの口から始めて自らの名前を出されたが、特に驚かない。
「お聞きします」
手短にそう返事をすると、フローレンスが言った。
「もし私がこの剣術大会で優勝し、その優勝者としてのエキシビションマッチで戦うことになる第一王女様に勝利することができたら、バイオレット様に一つ私のお願い……正確には、バイオレット様と取引をさせていただきたいのです」
「取引、ですか……ではそのお話をお受けさせていただく前に、その願いというものの内容をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「それは、私の感情による理由ですが今はお伝えすることができません……お願いすることが可能になった時にお伝えします」
基本的に契約や取引では、事前にその先にあるものを明確にしておくもの。
それを伝えてもらうことが不可能となるとバイオレットはこの話を受けようかどうか迷ったが、この話はこちらにも利点があると感じたためバイオレットおはある条件を出すことにした。
「わかりました……ただし、そちらの取引を受けさせていただく場合、その願いというものに条件を加えさせていただくことになります」
「どのような条件でしょうか?」
「私の職務に影響を及ばさないもの、です」
これにより、仮にシアナから自分の方に寝返れと言われてもそれを拒否することができ、ルクスと関わるのをやめるよう言われても、それはバイオレットがシアナから与えられている職務に影響を及ぼすため断ることができる。
これに対してフローレンスがどう反応するかは未知だったが、フローレンスは特に動じた様子も無く言った。
「その条件で結構です……元より、バイオレット様の職務に影響を及ばすようなお願いをするつもりはありませんでしたので」
そう言うフローレンスに対して、バイオレットはこの話を受けた理由に関する本題を切り出す。
「これが取引であるということは、反対にもしフローレンス様が敗れた場合は、私が願いを聞いていただいても構わないのですか?」
「当然です……が、私にもその願いに関する条件が一つ────私の感情に反しないもの、という条件でお願いします」
「感情に反しない、ですか……」
────私の願いがフローレンス様の感情に反するかどうかというのは取引としては曖昧にも思えますが……
「わかりました、それで構いません」
仮にバイオレットがどんな願いを口にしたとしても、フローレンスが感情に反すると言えばそれで終わってしまう話だが、その点についてはフローレンスの人間性を信頼してバイオレットがそう答えると、フローレンスが言う。
「でしたら、私からのお話はこれにて終了です……それにしても、第三王女様と違い、バイオレット様とはとてもお話をしやすいです」
「お嬢様も、本来はとても理知的で論理的で、お話をしやすい方ですよ……フローレンス様とお話なされる時は、感情的になってしまうようですが」
「それにより本当に困っています、と言いたいところですが、私も第三王女様とお話ししていると感情的になってしまうので、人のことは言えませんね」
そう言ったフローレンスは、少し間を空けてからバイオレットに言った。
「バイオレット様は以前、ルクス様のために血を流さないという私の言い分も、ルクス様のために血を流すという第三王女様の言い分も正しいと仰られていましたが、その考えは今でも変わらないのですか?」
「変わりません……そして、もしフローレンス様が血を流すことを否定するのであれば、フローレンス様と私が相容れることはありません」
バイオレットは、自らの手袋によって覆われている右手の平を見ながら続きを話す。
「何故なら……私の手はロッドエル様だけでなく、他にもたくさんの理由で血によって汚れてしまっているからです」
「……それは────」
「お話が過ぎましたね、フローレンス様もそろそろお席に戻った方が良いお時間でしょう……失礼致します」
そう告げると、バイオレットは瞬時にその場から去った。
────フローレンス様は否定なされるかもしれませんが、それでも……ロッドエル様は、このような私の手を、綺麗だと仰ってくださったのです。
バイオレットは、自らの右手の平を優しく握り締める。
────ですから、このような私の手を綺麗だと仰ってくださったロッドエル様のため、そしてお嬢様のためであれば、私はこれからもこの手を……
バイオレットは改めて固く決意すると、人気の無い場所で剣術大会の試合を最後まで見届けることにした。
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