第6話 大人気ない初配信前夜(7)
「魔法についても俺の力についてもこれで大体分かっただろ、さっさと実践に入ろう。この授業はエイトがアムニストレージを習得するまで終わらないからな」
「エェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェエエッ!?!?!?!?」
エイトが今まであまり聴いたことがない絶叫を上げて他の数人の驚く声までほとんどかき消してしまった。
「よし、始めるぞ」
「何が始まるんですか!?」
「まずはエイト、服を脱いで魔法印を見せてくれ。身内ばかりだから良いだろ?」
「えっ!?一人だけ脱ぐのはちょっとアレですね」
「確かに、じゃあ俺も脱ぐか」
アスティマが先に躊躇なく上下を脱いだのでエイトは「ええっ!?」と動揺しつつも大人しく脱いだ。二人と膝上のボトムスのような下着なのでさほどおかしくもない。
「まだ線が細いが良い体をしてるな」
「あ、ありがとうございます。いやアスティマさんの体こそすごいですね!?戦いに必要な筋肉だけを磨き上げたみたいな。手足長いから細く見えるけど太っ!!」
「俺は実際に細い方だったかもな」
「そうなのかぁ」
「ではエイト、魔法印を一瞬でも良いから出してみてくれ。俺は背中を見るからエリカは全面を頼む」
「はいはいおっけー」
エイトはエリカに見られるのは抵抗がありそうだったが仕方ない。アスティマ一人で両側を見れないことはないが、一瞬で魔法印の形を覚えなければならないのが辛いからだ。
「い、行きますね」
エイトは魔素吸引を行い全身に力を込めた。浮かび上がった魔法印が玉虫色の輝きを放つ。
「おお、光、風、土、火のマルチエレメンツか、これは‥‥‥‥‥‥」
ハッキリ言ってイーサンの子供と聞いていなかったらもっと驚いていた。勇者の力は血筋によって引き継ぐわけではないが、やはり才能は引き継ぐので古来より歴代の勇者の子孫が魔族に狙われるケースは多かった。
「な、なんか変ですかね?」
「いや、純粋に凄い、四元素など滅多に見ない。よし、書き出すか」
アスティマは面を回転させて真っさらなホワイトボードにエイトの背中の印を書き記していく。
「背中はこんな感じだったな」
「前はこう」
エリカは前を描き、二人でそれを確認しながら考える。
「中心は光と風の基礎の陣だな、こうなると背中全体と肩と胸にかけて、ここをこう合成して‥‥‥毛細血管の部分がこのペンだと描き辛いな‥‥‥エリカ、お前の意見は?」
「背中と胸も全部繋げてこうじゃない?最初だから結界構築できたら効果はなんにも乗らなくても良いって考えでしょ?なるべく簡単な形にしたいわね」
「ああ、いきなり実用的なアムニストレージは酷だからな。まだ簡略化が必要そうだ」
アスティマとエリカは二人で魔法印ついて議論を重ねながらボードに案を描いていく。最適な魔法印を提案できたからといってその通り魔法が使えるわけではなく最終的には本人の才能と努力次第となるので、二人が力になれるのはこれくらいと思い真剣に話し合う。
「よしできた。エイト、この形に魔法印を形成してみろ」
「仮に思い通りに流せたとしても反復しないと印が定着しないと思いますけど‥‥‥」
「発動は一瞬でも良いんだから今ある魔法印が定着してるならやれる。魔力中毒になりそうなら止める」
「くぅ~!!きっと大戦時代ってこんな感じの教育なんですね!!」
「魔素吸引を繰り返しての大魔法の練習などまず死ぬ、魔力はエリカから借りるか」
「死ッ!?!?!?」
怯えるエイトにアスティマがメダリオンを渡そうとすると、スッと手を割り込ませてヘンリーが止めて来た。そして自身のポケットから加工されたマナタイトのネックレスを出してくる。大きさからしてかなりの魔力が貯蔵されていそうだ。
「これを使わせますので」
そう言いながらヘンリーがエイトの首にネックレスを掛けた。
「魔法関連の道具は高価だと言っていたのにあるのか、そりゃそうか」
「ふう~‥‥‥緊張するなこれ」
「大丈夫、お前ならやれる」
不安げだったエイトはその一声で覚悟を決めた顔をした。アスティマとしてはその発言に何の根拠もなく、心の中では「流石に無理だろうな」と感じていたがとりあえず確信めいた顔でエイトと視線を交わしておいた。
「すぅぅぅぅぅぅ‥‥‥‥ハァァァァァァァァァ‥‥‥‥」
一同が固唾を飲んでエイトを見守る。
「アムニストレェェェェェェェェィジ!!!ていっ!!!!」
エイトが少し気の抜ける掛け声で気合を入れた。しかし次の瞬間その場の全員が驚愕する奇跡が起きた。
「えっ!?!?!?!?」
「エイト様!?!?!?」
「こっ!!これは‥‥‥‥‥‥」
道場の景色がガラリと変わった。夜だというのに晴天、そしてアスティマにはどことなく見覚えのある草原だった。
「‥‥‥参ったな。一発で成功だ、聞いたこともない」
「カッコつけても膝震えてるけど」
エリカは馬鹿にしてくるが、アスティマが密かに危惧していた「人口が当時の十倍以上の世界では自分やイーサンより素質のある人間がそこそこ産まれてくる説」が補強されてしまったので動揺するのは当然だった。
「えっ!?!?成功したっ!?えっ!?嘘でしょ!?ええぇぇぇっ!?」
当の本人が一番困惑していたが無理もない。そして精神の乱れで容易く崩れ去るはずの結界は決して綻びることなく維持され続けている。全員が驚きのあまりせわしなく周囲を見渡していたその時だった。
『ああ~アスティマ様の裸見てぇ~姉さん見てんのかな~‥‥』
「えっ」「へっ」「ほえぇっ!!?」
突如として異空間に響き渡ったエイトの声にメイドたちは三者三様の驚きの声を上げる。一番素っ頓狂な声を上げたのはキスリラだった。
「なにこれぇっ!?!?えっ!?なにこれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」
エイトが空を見上げながら叫ぶ。空に浮かぶ数々の記憶はまだあまり鮮明ではない。アスティマが声の聞こえて来た方角の記憶を目で追うと、そこには薄ぼんやりとした視界から見るテーブルか何かの像が浮かんでいた。その視界が時々横にブレる。
「ああ、これは俺がこの家に来た日の記憶か、着替えてた時だ。薄目で見ようとしてたのか?見たけりゃ見ていいと言ったのに」
アスティマは特に何とも思わなかったが、この時はまだいなかったエリカが産まれたての子鹿のようにプルプルと震えながら、アスティマの脚に捕まり大声で笑っていた。
『この家のメイドみんなかわいいし性格も良いのに彼氏とかボーイフレンドいないっぽいの奇跡だな。メイドの仕事のせいかなぁ、この家ブラックなんかなぁ実は』
「っつあ!!!!!」
お次はリビングのソファーでメイドたちが姦しくデジタルゲームとやらを遊んでいる光景が広がった。エイトはボーッと眺めながらこんなことを考えていたらしい。
「えーっと」
「エイト様?」
「お、お気になさらず。理想の職場環境です」
メイドたちはすこぶる気不味そうな顔でエイトを見つめていた。
『姉さんまたおっぱいデカくなったな~‥‥‥やんわりと学校での盗撮とか気を付けるように言っとくか、どう伝えよ』
「えっ!?これお風呂入ってる時の記憶!?ちょちょちょっ!!!エイト消して!!!」
今度は家の浴場のようだ。段々と鮮明になるその記憶の像を見てエイトの体をレナが何度も揺さぶるが、結界が綻ぶ気配がない。
「どやって!?どうやって消すのこれ!?消したいよ僕だってさぁ!!!うわっ!!視界が下向いた!!見るな見るなっ!!いや折角できたのに変なことしていいのかな!!?」
「た、確かに‥‥‥‥‥‥ん?別にここにいる人たちにカラダ見られてもいっか」
初めは焦っていたレナはそう言ってすぐに落ち着いた。空に浮かぶレナの裸体からヘンリーとセバスチャンは気不味そうに視線を逸らしていたが、アスティマは「そう言えば二人は一緒に入浴していると聞いたな」と呟きながら堂々と見上げていた。
「アンタはなに凝視してんのよ!」
「この細身であのパワーだったのか、どうなってんだ。竹刀でさえかなり痛かった」
アスティマには人の筋肉を観察する癖があった。
「あ、あの。私もっとカラダ絞った体の方がいいですか‥‥‥?」
「いや、どんなレナも可愛いから何でもいいよ。いっぱい寝て食べてすくすく育て」
アスティマがほとんど脊髄反射で答えるとレナが照れると同時にエリカに尻を叩かれた。そして頭上に浮かぶ記憶の中で次に一際ハッキリと見えて来たのは人気のない建物の陰で佇む見知らぬ少女だった。
『あの、エイト君。付き合って下さい!!』
「ほげぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?!?!?」
「あっナミちゃん。告白されたって噂本当だったんだね。この髪型は結構最近だ」
レナだけが冷静だったが他の全員が絶句している。これはアスティマの時代にも良くあった青春の一幕だと勘付き静観する。
『気持ちは嬉しいし佐倉さんメッチャ美人だと思うけど。僕はまだ自分の時間を大切にしたいって言うか色んな鍛錬の時間が長くてさ、ゲームする時間も削りたくないんだよね』
『そっか、そうだよね』
「ゲームする時間‥‥‥エイトあなた」
「奥様、エイト様は配信者でもあるのでゲームはお仕事ですから、真っ当なお断りですよ」
「かわいくて人懐っこいからサークラちゃんなんてひどいあだ名付けられてるけど、良い子だよ?」
「サークルクラッシュちゃんですか?それはひどいですね」
息子に何か言いたげなジェシカをエストリンが宥め、レナとキスリラはアスティマには良く分からない話をしていた。
『あと、佐倉さんさ。良くお父さんのことディスってるじゃん?僕は立派な両親の元に産まれたから多分そういう気持ち余計に分かんないんだけど、人前で親のこと悪く言う人は好きになれないかな、ごめん。その、マジでお父さんと何かあるなら相談乗るけど』
「くはっ!ダァークックックックックッ!!!エイトお前凄いなっ!!俺より酷いぞ!!」
「ああアンタだってひひ人のこと言えないでしょ、アンタがもらった恋文突っ返してたの思い出したわよ!!てかっ、その変な笑い方やめなって散々‥‥‥プッフフ!!アッハハハハハハ!!!」
優しい声音でとてつもなく厳しい追撃を仕掛けるエイトに、アスティマは滅多にない大笑いをしてしまう。気付けば笑いの壺にハマり続けているエリカと二人、プルプルと震える体を支え合うようにして立っていた。
「エイト、ナミちゃんもう諦めてる雰囲気だったのにそこまで言う必要あった?オーバーキルじゃない?」
「いやもう消してえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
エイトの悲痛な声が響き渡る中、ヘンリーやジェシカが空を見て目を見張っていた。アスティマがその視線を追うと、今一番ハッキリ見えているのは壮年の男性が見覚えのある場所でブランコに腰掛け、エイトを見つめている記憶だった。良く見ればそれはこの家の庭で、相手はあのウィルソンという人物だ。一応後々あの映像を見たエリカも静かにアスティマから離れ空を見上げた。
『えっ!?宇宙飛行士!?』
『うん、ダメなら冒険者』
『スポーツ選手は?エイトは運動神経も良いし体も丈夫だ』
『ちょっと憧れる。でもやっぱり勇者様のお体や遺品探したいし。おじさんも一緒にどう?』
『俺もかい!?そりゃ気持ちは分かるけど、龍月はそもそも勇者様を除いて人類未到達のはずだし、いくら勇者様の子孫が行きたいと言っても厳しいだろう』
『俺があの預言者様みたいに物凄い影響力の配信者になれたら世の中変えられるかなぁ』
『でも龍月には今も龍がいるかもしれないぞ?ああ、でもエイトは頑張って魔法の力も鍛えてるもんな』
『絶対に龍なんてまだまだ闘えないけどね』
『うぅむ、あまり危ないことはしてほしくないけども‥‥‥本当にそういう道に進むならその時もう一度おじさんに言いにきなさい。とっておきのお守りを貸してあげよう』
『何それ?』
『それは秘密だ』
「ウィルおじさん‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
それまで騒いでいたエイトが嘘のように静かになり、周囲が静まり返った。アスティマがエイトに歩み寄りネックレスを取り上げると、アムニストレージの結界が砕けたガラスのように粉々に散って全員が元の道場に帰って来た。
「あずでぃまざん?ネックレスどればいいって分かっでたなら言ってぐださいよ!」
エイトは色々な感情がないまぜになっているのか泣きべそをかいていた。
「いや、普通あそこまで動揺していたらアムニストレージは保てないはずなんだがな。まぁ何にせよ良くやった!とてつもない偉業かもしれないぞ」
「ぼんどうですか?」
「そりゃあねぇ、イーサンもアスもエレノアもアタシたちもこんなすぐアムニストレージ成功してないわよ?」
「お見事です!エイト様!」
「すごいわエイト」
「坊ちゃんはやはり一味違いますな」
皆がエイトを褒め称え拍手する。アスティマにはそれが、最後に垣間見た切ない記憶で喜びが萎んでしまうことを避けるための行動にも見えた。
「アスティマさん?」
「どうしたエイト」
「どおじて先に言ってくれなかったんです!」
「え、エイト?」
アスティマは初めてエイトに睨まれて思わず動揺する。
「わ、悪い。精神から作る結界と知っていれば分かっているものと思ったが、そう言えばお前たちはエリカのアムニストレージの時にいなかったな」
「アスティマさんのも見せてくだざい!!」
「俺のアムニストレージを?」
「僕だけがこんな辱めを受けるのは納得いぎまぜん!!!」
膝を付いたエイトがアスティマの脚にしがみ付きながら必死に訴えかけてくる。
「ちょっ!エイト何してるの!」
「エイトいけません!離れなさい!」
姉と母がそれを必死に引き剥がそうとする混沌とした構図が出来上がった。可愛い。
「俺のか、俺のなぁ」
「エイト?アスのは何も見えないわよ」
「えっ!?!?」
「あの空のヤツな、慣れた術者なら隠せるんだよ」
「ざぎにそれをおじえでぐださいっ!!!」
「そこまでやろうとしたら流石に無理だったろ、集中が乱れて」
「しかもアスのはそういう問題じゃなくて最初から何も見えないのよ、残念ながら」
「ずるいっ!!!!!ずるいずるいずるい!!うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
床をバンバンと叩くエイトの姿はまるで先程のアスティマだった。
「しかしこれならいっそ他の者も試してみるか。あの結界が出せるだけで突然この家が空爆されても助かる見込みは生まれるからな」
「確かにね~」
その後はインターネットに接続された機器に魔法印の画像は残さないほうが良いということで別の部屋からさらに追加のホワイトボードを運び込み、アスティマとエリカがそれぞれ男女の魔法印を確認して全員分の印を二人で提案して描き込んでいった。もしも全員が習得できたらどうしようというアスティマの危惧とは裏腹に、レナでさえアムニストレージの展開はできなかった。正直なところ、エイトの身に起こったことが頭を過り後の者が集中できなかった可能性も否めない。特に秘密の多いヘンリーとジェシカの思考や記憶が若者たちに見えるとまずいので、アスティマとエリカはこの二人が成功した瞬間に強引に結界を破壊する心づもりで待機していたが、それも杞憂に終わった。
講習が終わりきちんと服を着て道場を後にするタイミングで、アスティマはヘンリーを呼び止める。周りには皆がいるが別に聞かれて困る話ではない。
「ヘンリー、ウィルソンの言ってたお守りに何か心当たりあるか?根拠はないがメダリオンのように思えた」
「いえ、全く。ウィルソンは歴史学者でクラーク家の遠縁に当たるのですが、メダリオンの所有権を主張できた人物かと言われると」
「オースティンの血筋なのか?しかしオースティンはメダリオンがこの世に生まれる前には死んでいる、ウィルソンが持っていたとしたら遺跡で見つけた他の誰かのものか」
「その場合は誰にも報告せず隠し持っていたと言うことになりますね。本当に持っていたのなら、今どこにあるのか‥‥‥‥‥‥」
「ウィルソンとのやり取りを思い出してみろ。もしかしたらお前には何か秘密のメッセージを送っていたかもしれない」
「承知しました、よく思い返してみます」
二人で真面目な話をしていたところ、目の前に虚ろな顔のエイトがやってきた。
「アスティマさん?今日の配信講座、これから始めましょうか」
「こんな時間から?」
「アスティマさん夜型でしょ?」
「いやお前たちは成長期なんだから寝た方が良いぞ」
「まだ23時にもなってませんよ」
エイトは顔こそにこやかに笑っているがどうにも様子がおかしい。
「体力には自信があるが脳みそはな、俺は話すのが得意じゃないからこれでもさっきので結構疲れたんだ。石室の解析も別に得意分野じゃないし‥‥‥」
「疲れましたか?あのくらいで?そんなんじゃあアイクォーサーはやれませんね」
「うっ」
アスティマがエイトのトゲのある言葉にほんの一瞬怯んだその時だった。
「姉さん!エストリン!キスリラ!頼む!」
エイトが突如叫ぶ。
「えーっと、もう少しお話ししましょう?」
「お覚悟を」
「ごめんなさい、あくまでこのお屋敷のメイドなので」
突然、こちらの様子など気にも留めずに世間話をしていたはずのレナが背後からアスティマに抱き付き、左右の腕をエストリンとキスリラに掴まれて取り押さえられた。
「はっ!?何をっ!?」
「ちょっとみんな、何をしてるの?」
ジェシカとヘンリーは只々困惑していた。
「このか弱い乙女たちを無理矢理振り解くことはできないでしょう?さぁ僕の部屋へ、いっそ明日から配信始められるくらい基礎の全てを叩き込みます」
「エイトお前!?根に持つタイプか!?」
「分かって来たら楽しいですから」
エイトは貼り付けたような妙な笑顔でアスティマの正面にしゃがみ、何と両脚を掴んでそのまま持ち上げてしまう。さらにエイトに持ち上げられた自身の脚の先を見ればもう一人、アスティマに背を向けて両足を肩に乗せる人物がいた。
「エリカお前まで!?クソ離せ!!!俺は世界を救った英雄だぞっ!!!」
「ナニをクソ無様なコト言ってるのよ、諦めなさい。さっ、アタシも手伝うから運ぶわよー、エイト転ばないでよ」
「はい!ありがとうございますエリカ様!」
もうダメだ、下手に暴れれば怪我をさせてしまうかもしれない。アスティマは覚悟を決めた。
「瞳に映り瞼が閉ざさぬ無二、心に潜み体を動かす衝動、癒し賜え恐れ育む母」
「コイツ詠唱してる!?!?正気っ!?」
それはもしエリカが冷静なら対抗策はいくらでもあるという、一種の賭けだった。
「影の沼(シャドウ・スワンプ)」
「くっ!!みんなコレ幻覚だから!!本当に身体が影に沈むわけじゃないから!!離すんじゃないわよ!!」
エリカが他の面々に必死に呼びかけるものの、全員がふらついて拘束が緩んだ。
「今日は勘弁してくれぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
その隙を突いてアスティマは逃げ出した。魔法を使い用済みとなったメダリオンを放り投げると、その場の人々はまだおぼつかない足取りであたふたとしながらも何とかメダリオンをキャッチしようとし、エリカが叫ぶ声が聞こえた。その声に応えることもせず全力で一番近くのトイレの扉を開け放ち、住人がスリッパと呼んでいた履き物を履くと一気に庭まで飛び出して、追いすがるいくつもの声をふり切って颯爽と屋敷の柵を飛び越える。
この日、アスティマは初めて屋敷の外へ出た。遠い昔のように夜闇の中を駆け抜ける。久々に野外を走る高揚感に背中を押されるがまま、曲がりくねった坂道を突っ切って斜面を滑り降り、今までは遠く見下ろすだけだった街の明かりを目指して走り続けた。ハワードの屋敷の周りは緑が多く、振り返るとあの屋敷の外観も相まってこの辺りはまだアスティマが生きた時代とさほど変わらないように見えた。しかし舗装された走りやすい道が、夜道を照らす街灯の明るさが、夜空を区切る無数の送電線が、時代の移り変わりを感じさせた。
しばらく走り続けると人家が増えてきた。やたらと背の高い家屋や宿舎のような建物からは無数の窓灯りが漏れている。この時代の人々はきっともう、あまり闇を恐れていないのだと感じた。人や車の通りが多い道に出るにつれて一際明るい建物ばかりが目に付くようになったが、あれらは現代の道具屋や酒場なのだろうと解釈する。すれ違う人々は疲れた顔をしていても浮かれていても、携帯を見ていたり自転車に乗っていない限りは、興味のない風を装ってアスティマをチラチラと見ていた。体格からして目立つのだろうとあまり気にしなかったが、時々見かける酔っぱらいの視線は絡みつくようで不快だった。
夜に溶け込めても、街には溶け込めそうもなかった。ふとヘンリーの言葉を思い返す。この街は田舎ではないが大都会というほどでもない、特に首都とはまるで人と建物の密度が違うと。それでも生まれて初めて見た明る過ぎる夜に、煌びやかな時代に、これ以上踏み入ることができなかった。アスティマはしばらく当てどなくただ暗がりを求めて街を彷徨い、やがて何処に行くでもなく来た道をとぼとぼと歩いて引き返しながら、随分と遠くにまで来たものだと、そんなことを考えた。
──そして忙しなく時は流れ、物語は一人の新人アイクォーサーが激しく燃え上がった夜の、その明くる日へと続いていく。
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