第17話招かれざる客(1)

 浴室から上がったアスティマは水着のまま扇風機という小さい風車の前で体を冷やしていたが、同じくまだ水着のエストリンが「お二人とも、こちらへお越し下さい」と言いながらやたらと光沢のある黒いチェストに向かったので言う通り着いて行った。


「このチェストは?」


「アスティマ様、エリカ様。こちらの棚には冷えたお飲み物が入っていますので、よろしければ喉を潤してはいかがでしょう?お風呂上がりの一杯は格別ですよ」


 そう言ってエストリンがチェストの扉を開け放った。中から流れてきたひやりとした空気を浴びて、アスティマはその正体を察した。


「ああ、電気を使った冷蔵庫もあるのか。いや、エリカは‥‥‥」


 生身の人間ではないのだがとアスティマが言う前に、当のエリカは冷蔵庫の中を食い入るように見ていた。


「えーとミネラルウォーター、アクティブウォーター、緑茶、リンゴ、オレンジ、ピーチ、コーヒー牛乳、エルピス、サイダーって‥‥‥これもリンゴ酒?何が何だかさっぱり分からないけどどれも美味しそうね!」


 アスティマも所狭しと並べられた飲み水の山をエリカの上から覗き込み、何の気なしにその内の一つの「エルピス」と書かれた飲み水を手に持ってみた。ガラスと思っていた容器は握るとペコペコとへこむ。何だこれはと思い少し強く握ると柔らかい容器はたちまちバシュン!と音を立て、瞬間弾け飛んだフタはアスティマが咄嗟にキャッチしたものの、中の白い液体の飛散は防ぎ切れずエストリンの顔や胸元に掛かってしまった。驚いた彼女は「あんっ!」と妙に色っぽい声を上げる。


「す、すまない!体を洗ったばかりなのに」


「アンタ何で急に力を制御できない哀しきモンスターになってんの?」


 このような間抜けなミスなど滅多にしないアスティマは、手に持っていた容器のフタを閉めてエリカに押し付けるように渡し、考える前に肩にかけていたタオルでエストリンの顔を拭く。そのまま胸の谷間辺りを拭いたところで「んっ‥‥‥」と吐息混じりの声が聞こえた。そこでようやく自分がしていることに気付き、おもむろにエストリンから体を背けると開きっ放しの冷蔵庫が目に入り急いで扉を閉じた。


「悪い、体を洗ったばかりなのに」


「い、いえ‥‥‥あちらの洗面台で軽く流して拭いてきますからお気になさらず。そのまま着替えて参りますので、アスティマ様もお着替え下さい。お待たせするのは忍びないので」


 どことなく気不味そうにする二人を余所にエリカは渡されたエルピスをゴクゴクと飲み進め、一人で「ぷはぁっ!これ美味しいわ!」などと満足そうに声を上げていた。


 その後さっさと着替えたアスティマは少し遅れて着替え終えたエストリンに呼ばれ、いくつも並んだ鏡台の一つに座らされる。エストリンに「お髪を梳かせていただいてもよろしいでしょうか?」と尋ねられ、知り合ったばかりの女に髪を触られることに抵抗はあったものの髪どころか乳房を触った相手にそう言われては断り辛く、強い心で「いや、背後に立たれると困る」と断った。それを聞いてニコリと微笑んだエストリンは無言でアスティマの横に腰掛け、容赦なく髪をタオルでポンポンと叩いてくる。そのまま風が吹き出す謎の道具で髪全体を乾かし、慣れた手つきで梳いた後は例の輪っかで綺麗に束ねてくれたが、途中で要望を無視し平然と背後に立ってきた。やられたらやり返すが信条のアスティマは逆にエストリンの髪を整えると申し出たが、それは「いえ、お構いなく」とぴしゃりと断られる。当たり前だが出会ったばかりの男に髪を触られたくなかったのだろう。


 そのままアスティマは何となく髪を乾かすエストリンを真横から仏頂面で見つめ続け、堪りかねた彼女が「あの‥‥‥何か?」と困惑した様子で尋ねてきたタイミングで「別に」とだけ返すと、洗面台を離れ改めて冷蔵庫に向かう。先程の飲み水はエリカに飲まれてしまったので自分も何かもらおうと思ったが、それにしても数が多い。


「良くもまぁ飲み水がこんなにあるな。ここは浴場だから他にも置いてあるのだろうし」


 全く味が想像できないいくつかの水の容器に手を触れ、観察しながら呟く。近くにいたエリカに話し掛けたつもりだったがエストリンの方から声が返ってくる。


「飲み水については800年前とは全く事情が異なると思います。この国では浴室で私たちが使った水道の水も一応は飲めますよ。ただ、水を清める施設から供給されてくる途中の給水管などが錆びていることも考えられるので、飲む人はあまりいませんが」


 まだ鏡台にいたエストリンはわざわざ風を吹き出す道具を一度止めてアスティマに説明し、話し終えるとまた髪を乾かし始めた。


「俺たちの時代の水は一手間加えないと安心して飲めなかったな、エリカ」


「そうねぇ、良い時代になったものね。次はどれもらおうかしら」


「えっ?」


 思念体なのにまだ飲む気か?という言葉が口を突いて出そうになったアスティマだったが、この家の神祖様に向かってそんなことを言うのもケチ臭い気がして堪えた。


「エリカ様は普段どのようなものをご愛飲なのですか?」


 髪を乾かし終えたエストリンがエリカに歩み寄りながら尋ねた。エリカは少し間を置いて答える。


「‥‥‥紅茶?」


「ではこちらでしょうか。他にミルクティーやレモンティーなどもございます」


「今はミルクの気分ね、いただくわ!‥‥‥これこのまま口付けて飲むのが普通なの?」


 エリカは既にさっきアスティマが開けてしまったエルピスを飲んでいるが、貴族ではあったのでラッパ飲みのような形は少し気になるのだろう。


「あ‥‥‥はしたないですよね、ええと」


「どうでも良いけどね!これもうまぁい!!」


 エストリンはカップでも用意しようとしたのかもしれないが流石にこの部屋にあるとも思えず、そもそも野宿も戦場も平気な女がそんなことに構うわけもなかった。


「アスティマ様はダークミールをご愛飲でしたね‥‥‥ではこちらなど如何ですか?旦那様のお手製のジュースです」


 エストリンが上品な仕草で手に取り勧めてきた飲み物はコーヒーとは真逆のミルクのような色合いだったが、わざわざこちらの好みを考慮していたので何一つ疑うことなく勧めに従う。


「ヘンリーがわざわざ自分で?何の果汁か知らないが高価そうだ」


「はい、大変お高いですよ」


「ぷはぁ!ミルクティーうまぁ!」


 エリカはミルクティーも随分と気に入ったらしく、酒でも飲んでいるかのような勢いだった。今の状態で味覚まであるのはかなり奇妙に感じたが、本人が満足ならそれに越したことはない。


「フッ、良かったなエリカ。こっちは‥‥‥オエッ!!まっずっ!!これエリカの親父が飲んでたハオマジュースか!!」


 アスティマの慌てる様子を見て一心不乱にミルクティーを飲んでいたエリカが吹き出したが、アスティマは何とか吐き出さずに堪えた。この芳しい花の香りの後に口内に広がる強烈な苦味と酸味には覚えがある。神秘の植物ハマオの実の果汁、生命活性だとか子孫繁栄の効能があると言われていたがとにかく不味く、かつて人類の双璧と謳われた勇者と騎士を揃って悶絶させた因縁の味わいだった。


「い、良いんじゃない?アンタもこれからは健康に気を遣わないと‥‥‥ぷっふふ!」


「ふふっ、うふふっ‥‥‥あははっ!」


 笑い続けるエリカに釣られたようにエストリンも大きな声で笑った。やはり不味いと知っていてわざとやったらしい。


「救世の英雄様にとんだ無礼をいたしました。これでおあいこですね、だからもう今までのことは気にしないで下さい」


 そういう意図なのだろうなとは感じたが、魅了の力を持つエストリンの前でこんなものを飲んでしまったアスティマはそれどころではなかった。


「クッ、良い顔で笑いやがる。抱かせろ」


「‥‥‥ええっ!?あっ‥‥‥は、ハイ」


 アスティマはまたチャームだと感じ咄嗟に自身の太ももをつねったが、エストリンは何故か照れた様子で躊躇いがちに両手を広げた。


「ハイはダメでしょ。リンちゃん、ハオマって健康に良いけど特にオトコが元気になる効能あるのよ、そのせいでまたチャーム掛かってるわ、コイツ」


「はぁ‥‥‥?健康に良いことと男性が元気になることは同じでは‥‥‥?」


 エストリンはエリカの言葉に困惑していた。


「あれっ?リンちゃんって二十歳過ぎてるのよね?」


 今度はエリカは困惑しているが、たった今アスティマが妙なことを口走った時のエストリンのあの反応を見るに、彼女のことは何となく察しがついた。


「エリカ、エストリンは‥‥‥」


 アスティマは皆まで言わず口だけ動かして「男女のあれこれの知識が全くないのでは」と伝えた。エリカはそれをしっかりと理解したらしく口をあんぐりと開けていた。アスティマが考えたのは、エストリンはサキュバスの本能を抑え込むために性を連想させる知識を遮断し、今日までひたすら「家族以外の男性には極力近づかない」ことを守って生きて来たのではないかということだった。


「‥‥‥それにしてもリンちゃん、恐ろしい子。正直コイツとんでもない堅物だから抵抗力が昔より落ちててもこんなホイホイ魅了されないわよ」


「内面を知って信頼と畏敬の念が生まれてしまったせいかもな」


「ええっ!?き、恐縮です‥‥‥あら?信頼‥‥‥と言われますとアスティマ様、我々を信頼していなかった時に私が差し出した食べ物を良くお口になさいましたね」


 エストリンの問い掛けにアスティマは良く気付いたなと感心しながら、別に隠す必要もないので答える。


「毒には強いんだ。ついでに隙を晒すためにリビングで着替えたりもしたからな、本当はメダリオンがなくともあの辺りでヘンリーたちは敵ではないと感じていたんだが」


「それなのに私たちのせいで困惑させてしまったのですね」


「俺の弱さ故だ」


「さーて、今度はどれをもらおうかしら」


 エリカはまだ何か飲む気らしくまた冷蔵庫を漁っていた。生身ならその小さな腹はもうタプタプだろうと思うとまさに思念体故の自由さだった。


「遠慮しろとは言わないが思念体が飲んでも‥‥‥まぁ生きてる人間が飲んだって最終的には尿か」


 アスティマは言っている途中で自己完結してしまった。資源としては無駄そうだが、やはり幸せな気分になるならどうでも良いなと。ただ思念体という言葉を聞いてエリカが生身の人間ではないと思い出したのか、エストリンが首を傾げていた。


「今更なのですが、エリカ様が飲まれたお水はどこに行かれるのでしょう?」


 エストリンも失礼に当たるかと思い口にしなかったのかもしれないが、その小さな体で小さくもない容器の水を三本目となると流石に気になってしまったらしい。


「エリカ本人が飲んだと思い込むことで消滅してるんじゃないか、もしかしたら分解され水分としてその辺に漂ってるのかもしれないが。本人の意識次第では無限に飲めるだろう」


「む、無限に‥‥‥?エリカ様は全てにおいて特別な存在かと存じますが、そもそも思念体や霊と呼ばれる存在はなぜ地面をすり抜けてはいかないのでしょうか?」


 エストリンが尋ねてきたことは実際にゴーストと戦っていた時代の人間でも大半は知らないので、目の前にこんな存在がいたら気になるのだろうと思いアスティマは詳しく説明してやることにする。


「人間の強い感情が魔力と結び付いて生前の本人を再現しようとするのが幽霊だ、それは感覚で分かるか?」


「はい、この時代でもその認識です」


「その幽霊も元は人、魔法と同じくイメージに縛られる。基本的に地面はすり抜けず空高く飛べはしない、壁や扉のすり抜けもその向こう側をイメージできないとやれないが、大抵の人間が霊は歩かないと思っているせいで少し浮いている。人格は核となった感情に引っ張られ本人より理性に乏しく、情念の強さによっては生前叶わなかった目的を成し遂げるものもある」


「幽霊とはそういう仕組みだったのですか!?」


「アスのゴーストの詳しい性質の話、当時から色んな有識者に合ってそうとは言われてたけど一応コイツの持論だから話半分で聞いた方が良いかも」


 感嘆の声を上げるエストリンを見てエリカは念のために補足した。


「ああ、俺以外にも前時代から同じ主張をしていた奴はチラホラいたらしいが、合ってる保証はないから話半分に聞いてくれ」


 アスティマは事情があって魔族について色々と調べただけで、ゴーストの専門家でもなければ研究の第一人者でもない。


「いえ、ご丁寧にありがとうございます、私はとても得心がいきました。しかしそうなると、先程仰っていた精神と結び付く融和魔力‥‥‥というものがない今の世界には幽霊はいないということでしょうか?」


 それでもアスティマの話はエストリンには腑に落ちたらしく、質問を重ねてきた。


「自由な幽霊はいないかもな。ただエリカを見て分かる通り物に宿る定着魔力が存在している以上、地縛霊や物憑きはいる‥‥‥はずだが。生者の思念が渦巻く場所では並みの幽霊は自己を保てない、人が溢れ返るこの時代に奴らの居場所があるかは知らない」


 その話を聞いてエストリンはパン!と両手を叩いた。


「心霊スポットに髪の伸びる人形‥‥‥そのお話は現代のお化けのイメージにピッタリです!」


「そういう類いの噂はやはりあるのか」


「ええ、もちろんこの時代も寂れた場所や情念のこもった人形などはあります。それらの中では幽霊は実在するということですね。あの、しかしエリカ様は幽霊ではなく精霊や神霊と呼ぶべきものでは?私はその辺りも詳しくないので定義は分からないのですが」


「どうだろうな、俺が持つ幽霊の認識は今言った通りだ。普通は五感もなく別の感覚で代用しているから、俺だってエリカを見て何だコレはと思っているが‥‥‥別に精霊や神霊とも違うような」


「すぐに女の子をモノ扱いする男ね」


 アスティマがエストリンと話している間に三本目のレモンティーも飲み終わったエリカは、長椅子にうつ伏せになりながら足をバタつかせ不満げにアスティマを見つめていた。


「久々のオフロは最高だったわ、後は身体のケアね!アス、マッサージ得意でしょ!さぁ頼んだわよ!800年もあんな円盤の中にいたらオフロだけじゃほぐれないくらい全身凝っちゃってね」


 エリカはキラキラした瞳でどう考えてもおかしなことを口走っていた。


「凝らねぇよ!!思念体にマッサージはもはや神話の刑罰だろ!」


 堪らずアスティマは学生の頃のような勢いで言葉を返してしまう。


「はぁぁぁぁあ?もしかしてあの世で永遠に岩転がしてるおっさんの話してる?岩と私の柔肌を同列に語るなんて、アンタ頭おかしいんじゃないの!?」


「おかしいのはお前だ、体のない相手にマッサージなど徒労以外の何物でもない、無限に岩転がすのと変わらないだろ!」


「思念体だからイヤってこと?アンタは結局アタシの体だけが目当てってことなのね!」


「お前800年前より怠くないか、もしかしてマイルドな悪霊か?」


 アスティマとしては「大体、三十路近くまで生きたはずなのにそんな言動なのか?」と口に出して訊いてみたかったが、どうせ一層怒るだけなのでそれはやめておいた。魂の欠片を封じるというのがどういう処置かも分からないので、もしかすると本当に精神が若い頃に退行しているとも考えられる。アスティマがエリカとメダリオンについて思案していると、脱衣所に向かって近付いてくる急いだ様子の足音が聞こえた。


「アスティマ様!エリカ様!‥‥‥あら?リンちゃんもご一緒してたの?」


 現れたのはレナだった。エストリンは少しバツが悪そうにしていた。


「あ、はい。ええと‥‥‥」


 メイドが共に入浴しているのは少し奇妙だが、俺に誘われたとは言えず困っているのだろう。そう考えたアスティマは自身のせいなのですかさず助け舟を出す。


「エストリンを借りてしまって悪かった、どうせなら色々とこの時代のことを聞いておこうと思ってな。顔色が優れないようだが何かあったか?」


 何故か慌てた様子のレナは、先の口振りだとエストリンが戻って来ないので心配したと言うわけではなさそうだと感じた。


「あっ、はい、実は‥‥‥聖教会の騎士の車がこの街を走っているのが監視カメラに映って、周辺に聖教会の関連施設はないのでこの屋敷に向かっているんじゃないかと。お二人には少しの間隠れていただかないといけないかもしれなくて」


 アスティマにとって少し耳慣れない言葉はあったが、話の流れから車は昔と同じ移動の足で、監視カメラは遠方を監視するカメラのことだろうと理解した。アスティマにとってカメラは念写のための道具だが、似たような魔導具はやはり昔にもあった。


「到着までの時間はまだあるのか?」


「聞いた場所からだと到着まで二十数分くらいだと思います、まだここに来ると決まったわけではないんですが」


「ヘンリーは今リビングか」


「は、はい!」


「俺もすぐに向かう」


「ごめんなさい、アスティマ様はこの世界に帰ってきたばかりだと言うのに慌ただしくなってしまって」


「慌しい?何がだ?」


 レナが何を謝っているのか、アスティマには心底理解できなかった。騎士が来るかもしれない、そんなことはアスティマにとっては本当に何でもなく、これだけゆっくりしていたのだから慌ただしいとも感じない。それを見透かしてか、アスティマの視界の端でエリカが分かったような笑みを浮かべていた。

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