第10話メダリオン(1)

 エレノア歴752年7月20日──

(アルテナ旧暦2022年サラマンドラの月20日──)


 勇者の子孫たちが数世紀を隔て帰還した英雄と対面してから10数分後、変わらずハワード家のリビングルーム。件の英雄アスティマはとある事情からその場で甲冑を脱がずに立ったままで、アスティマが立っている以上は他の者も座ることは憚られると立ち続ける。アスティマ自身の「俺に付き合わず座ればいい」との言葉に反し、目の前に椅子があるのに全員立ちっぱなしという妙な絵面になっていた。


 現在リビングにはエイト、レナ、ヘンリー、そしてアスティマの4人だけが残っている。この中の誰かからアスティマに伝えなければならない話がある。適任者は当然ヘンリーだろう。アスティマは先程のヘンリーの名乗りで既に察しているかもしれないが、そのわりに随分と落ち着いている。周囲の者からすると、あの時はエイトとレナに気を取られて良く話を聞いていなかったようにも思えた。ヘンリーは意を決したかのようにアスティマを見つめて告げる。


「アスティマ様、人魔大戦終戦から現在までに800年の月日が流れました」


 そのとてもシンプルな一言で周囲には居た堪れない緊張感が走った。エイトやレナの年齢ではこんなにも救いようのない話を聞かされる人間を目の前で見た経験などない。しかし当のアスティマは極めて冷静に受け止める。


「‥‥‥お前が33代当主ならそうだろうな。この部屋に飾られた見覚えのない暦を見た時には薄々分かっていた。済まない、俺から先に言い出すべきだった」


「いえ!!私にお気遣いなど!!」


 エイトの隣で沈痛な面持ちのレナが「アスティマ様‥‥‥」と呟いた。恐らくこの状況で他人を気遣う姿に思うところがあったのだろう。しかしすぐに、目の前の人物は平和な現代に生まれた自分たちとは根本的に違うと痛感させる言葉を口にした。


「過ぎた話はまた追々訊こう、それより何か差し迫った問題があるのではないか?近くこの家が争いに巻き込まれるだとか」


「いえ‥‥‥その兆候はございませんが‥‥‥一体何故そのようにお考えに?」


 突然予想外の質問をされ思い当たる節はないと答えるヘンリーに、アスティマは己の考えを述べる。


「面識のない人間が俺をこの世界に呼び戻したなら火急の戦力として求めたのではと。人が見当たらないので訳が分からなかったが」


「左様でしたか、ご心配いただき感謝致します。ですが我々はあなたを‥‥‥」


「何より俺が今この屋敷の地下に帰還した事実があり、家の者もしくはその縁の者が数日前に死んだとすれば、先に事情を訊くべきと思ってな」


 ヘンリーの言葉を遮ったアスティマの推察を訊き、エイトは内心で舌を巻いた。鋭い。己の帰還のタイミングと喪服、その二つの事柄は結び付けられないことはないにしても、800年後に突然タイムスリップした人間がそこに至るのだろうか。ヘンリーもその顔に驚愕を滲ませる。


「我々と出会ってからわずかの間にそこまでお考えを巡らせたのですか?」


「ああ、この国には死者を幾度も弔う風習もあったと思うが、その様子では死んだばかりだろう。不穏当な死でないならそれに越した事はないが‥‥‥」


「‥‥‥お見それいたしました、アスティマ様。お着替えなど済ませ、落ち着きましたら現状と世界情勢についてのお話しと‥‥‥お見せしたい物がいくつかございます」


「分かった」


 エイトは二人の会話を聞きながら、己の身に何が起こったのか理解してなお平然としているアスティマへの動揺が顔に出ないよう、細心の注意を払う。冷淡な人物だと感じているなどと誤解されたくなかった。己の現状を「過ぎた話」の一言で済ませたことには驚いたが、むしろ世界を救った英雄に相応しい強靭な精神だと畏敬の念さえ抱いた。ヘンリーとレナも同様だろうと感じる。アスティマは今カレンダーを見たと話したが、そもそも異空間でおおよその時の流れを把握していたのか、生存出来た理由含めてその辺りは訊けてはおらず今はまだ分からない。ただ目の前の人物は、何もない場所に独りきりで数百年過ごした後の思考能力や精神状態には到底見えなかった。


 この場にまだ家の皆がいた際、ヘンリーはいの一番にアスティマへ傷の具合と食事について尋ねたが「健康に問題はない」と返答されていた。加えて「体も大して汚れてはないと思う」とも言われたので、入浴も後回しとなっている。現代の人間たちからすればそんなわけがないと感じる話だが、800年に渡って物質のない空間で存命していた人物がそう言うのであれば、受け入れるしかない。現に顔を見ても酷く汚れているようには見受けられず、ヒゲさえ伸びていない。鼻をつくような強い匂いも感じない。エイトからすると、もはや神霊的な何かで実体がないのではとしか思えなかったが、本人の弁を訊く限りそういうわけではないのだろう。


 何にせよ、彼が長期間に渡って異空間に閉じ込められていた生身の人間であることは確かなようなので、ジェシカとメイド達は食事の準備のためにキッチンへと向かい、執事のセバスチャンは衣服の準備のために部屋を後にしていた。エイトたちは当初、アスティマの全身を覆う鎧の隙間から少し肌が見えていることについて「昔の人だからか」と気にしていなかったが、実際には中に着ていたインナーが長い年月で擦り切れて消滅したらしく、甲冑の下は裸なので脱げないらしい。正確には「俺は一向に構わんがこの場には婦女子もいる」という気遣いだった。ヘンリーがアスティマに着席を促した時に「今は人様の家の椅子には座れない」と話したことから判明し、現在に至る。


「アスティマ様、お待たせいたしました」


 丁度会話が途切れた頃、エストリンがコーヒーとハーブティー、カットしたリンゴとメロンをテーブルに置いてまたキッチンへと戻って行き、ヘンリーがそれをアスティマに勧める。


「アスティマ様、お先にこちらをどうぞ。お体に何か異常を感じましたらすぐにお話し下さい。椅子のことなど気にせずお座りに」


「いや、行儀が悪くて申し訳ないがこのまま頂こう。この香りはダークミールのストレートだな、まさか俺の好物だという話が伝わっているのか?」


「ええ、イーサン様の手記に」


 アスティマは「それは気恥ずかしいな」と薄く笑いながらコーヒーに口を付けた。


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥うむ、良い味わいだ。焙煎して三日は経っているように思えるがこの家にダークミールを好む人間がいるのか?癖があるだろう」


「私とセバスチャンがブレンドを少々」


「ほう。俺の周りには他に飲む奴はいなかったよ」


 コーヒーを口にした後、アスティマはリンゴやメロンもしっかりと食べていた。800年振りの食事のはずだが体には本当に問題はないようで、エストリンが持ってきた品は残さず平らげた。手を付ける前に「お前たちは食べないのか?」と尋ねられたが、ヘンリーが葬儀の後の会食があったことを説明し「皆が食卓に着ける時に改めてご一緒させていただきます」と遠慮した。父は表向きはそう言ったが、エイトはこの場の全員の中に「食に何不自由なかった自分たちが、数百年振りに食事をとる英雄の横で食事をするのは畏れ多い」という意識がある気がした。


 アスティマが軽く食事を済ませた後、衣服の準備に向かっていたセバスチャンがリビングの大きい方の扉を開いて鎧立てとタオルハンガーを運んで来た。またその二つを置いた後はどこから持ってきたのか、古風な衣服の数々を吊り下げた大きなハンガーラックまでも運んでくる。


「お待たせいたしました、アスティマ様。お召し物をお選び下さい。この中にお気に召す物がなければ後日私とヘンリー様でご要望通りの物を仕立てさせていただきます」


 アスティマはセバスチャンが運んできた衣服に近付き、まじまじと観察しながら戸惑いの声を上げる。


「そこまでしてもらう義理はないが‥‥‥なぜ俺が着ていたような服ばかりがこんなにすぐ運ばれて来るんだ?」


 家の住人であるエイトたちでさえ同じ感想を抱くその当然の疑問に、当主であるヘンリーが答える。


「実は当家には常にアスティマ様の衣服の備えをとの習わしがございまして、代々当主のみが出入りする部屋で密かにご用意させていただいておりました。アスティマ様がご帰還なされた今なので、セバスチャンに打ち明けて運んでもらいましたが」


「執事にさえ今打ち明けたと言うことは仕立て屋に任せるのではなく、まさか代々の当主が直々に仕立てていたのか?」


「はい、お恥ずかしながら。私は裁縫の腕は凡庸ではありましたが、先祖の中にはそれを生業とした者もいました。特に出来の良い物は100年以上保管されておりますが‥‥‥こちらなどはそうですね」


「これで100年?埃も被っていないし傷みもない、全く古びて見えない。とても気安く着れないぞ」


 ヘンリーが何の気なしに手に取った物をアスティマは恐る恐る触っていた。その辺りの感覚は普通の人と変わらないようだ。


「お気になさらず、作り手も物も本来の役目を果たせるなら本望でしょう」


 ヘンリーはその服を仕立てた先祖に思いを馳せるかのように語り、アスティマは少し困ったように会話を続ける。


「それはそうかもしれないが‥‥‥しかしどれも俺の私物そのものだ。この聖堂騎士の平服もベルトも本物に見える」


「ええ、手記によるとイーサン様は当時アスティマ様が過ごされた騎士団本部の私室からお召し物を持ち出されたようです。それを参考に、後に続く我々はなるべく同じものになるよう作成する術を身に付けました」


「お前たち‥‥‥イーサンから相当な面倒を押し付けられたな」

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