幕間・黒騎士とメイドのASMR(2)

「そう言えばイヤホンやヘッドホンで聴くと良いですよとアドバイスをくれたが、この部屋にあるか?どうせお前の声が聞こえてくるだけだし不要か」


「旦那様が!?何故そんな余計なことを!」


「おっ、流れるぞ。何だこれは、衣擦れの音か?耳障りだな」


「耳障りに思うなら止めなさい今すぐに!」


『ご主人様、お帰りなさいませ。今日も一日お疲れ様でした♡』


「‥‥‥何でこのセリフを囁いてんだ、どういう距離感で出迎えてるんだよ」


「くぅっ!!ド素人の癖にまるでレビュアーのようなことを!!」


『お食事にしますか?お風呂にしますか?それとも‥‥‥え?耳のお掃除‥‥‥ですか‥‥‥?そんな‥‥‥恥ずかしいです』


「帰って来て出し抜けに?耳に虫でも入ったのか」


「くぅっ!!人の台本にゴチャゴチャと!」


 その言葉の後に何やらまた雑音と幾つかの囁き声が聴こえてきた。少なくともアスティマにはどちらも雑音としか思えない。


「何だこの雑音は?もしや耳掃除されているシチュエーションを再現しているのか?この配信‥‥‥一体何を目的としてるんだ?視聴者は何故こんなにも盛り上がっているんだ」


『‥‥‥どうですか?気持ち良いですか?私、上手く‥‥‥出来ていますか?えっ?そんなこと‥‥‥恥ずかしくていえません‥‥‥その‥‥‥あの‥‥‥‥‥‥』


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


 アスティマにはまだ色々と言いたいことはあったがもはや無言だった。


『すっ、好きです、ご主人様』


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


 アスティマにはまだ色々と言いたいことはあったがやはり無言だった。


「くぅっ!何か言いなさい!言いたいことがあるなら一思いに!!さてはそのプレッシャーで多くの人に自白を促したんですね!!」


 エストリンに構わずアスティマは自戒の念から思わずテーブルを叩いた。


「俺は‥‥‥俺は居候の癖になんて無駄な金を‥‥‥」


「すり潰しますよッ!!!!!」


 そもそもさっきから隣で騒いでいる女の配信越しの声を訊くために金を払い、己は一体何を得たかったというのか?これは初めから勝利のない戦いだった、そんなことにも気付かないとは騎士として一生の不覚。アスティマは後悔のあまり思わず頭を抑えたまま口だけは達者に動かした。


「ところでアムル先輩は何故この上擦った声でやっているので?普段の愛想のな‥‥‥いえ冷静な声の方がよろしいかと。いや私のような素人が早計でした、試しにもう少しだけ‥‥‥」


「慇懃無礼を絵に描いたような男ですね!!それが騎士時代の態度なら絶対に死ぬほど人から嫌われてますよ、あなた!!もう我慢なりませんっ!!!」


 アスティマの舐め切った態度に堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに、エストリンが対面の席からテーブルを飛び越えてアスティマに襲い掛かる。人としてメイドとしてあり得ない行儀の悪さにアスティマは一瞬怯むと同時に、戦士としてなら悪くない大胆さだと感心しすぐさま応戦する。相手の狙いはタブレットだろう。


「させるか!金を払った以上は元を取るためにもう少し見るぞ、こんなものに興奮している愚かな男共のチャット欄だけはなかなかに見ものだからな!」


「この悪魔ッ!魔王ッ!!先輩のリスナーに向かってなんて言い草ですか!!この家の方々が英雄であるあなたをどれだけ大切に扱おうとも、あなたのようにただ強いだけの性根の腐った男、私は絶対に認めません!!!大人しくタブレットを渡しなさい!!」


 エストリンにはアスティマに対する微塵の恐れもない。こんなにも己を恐れず襲い掛かって来る相手に出会ったのはいつ振りかも思い出せない。


「良い動きだがその程度で俺には‥‥‥コイツ脇をっ!!」


 アスティマはタブレットを上に持ち上げておけば身長差でどうにもならないと考えたが、的確に脇を狙ってくる。これでも一応は怪我をさせないように気を遣っているため、避けるのも上手くいかず思ったよりも苦戦する。いつも小生意気なエストリンの必死な姿が滑稽でまだまだ続けるつもりではあったが、ふと部屋のガラスに映った己の姿が目に入ってしまう。するとアスティマの胸には抗い難い虚無感が襲ってきた。


 これが騎士の姿なのかと。数百年も生きてきて一体何をしているのだ、この姿こそ滑稽なのではないかと、アスティマは己の大人気のなさを自覚し一気に気分が萎えてきた。もう大人しく謝ってタブレットを渡そうと思った矢先、エストリンがタブレット目掛けて飛び上がって来た。瞬時にこれでは顔と顔がぶつかるかエストリンがバランスを崩し転ぶかのどちらかだと予測したアスティマは、体を逸らして緩やかに受け止める判断を下したものの、思った以上のパワーと勢いを前に押し倒されてしまう。徹底的に庇い続け無事だったタブレットが、己と比べ随分と小さな手にサッと奪われる。


「やったぁ!!!」


 エストリンは思い切り床に体を叩き付けられた下の男のことは全く心配していない様子だったが、それはそうだろう。アスティマはもう何もかもどうでも良かったので、満面の笑みを浮かべるエストリンの真下で相手に怪我がないかを無気力に観察する。その時だった。


「‥‥‥り、リンちゃん?何してるの?」


「レナか?そうだよな、普通は上の奴に訊くよな」


 よりにもよって一番人に見られたくない現場を風呂上がりの双子に目撃された。別にやましいこともないが、生憎とその質問の答えは二人とも持っていない。


「お、お嬢様‥‥‥!?いえ、違うんです!!これはその、あの‥‥‥!!」


 すぐにアスティマの上から飛び退いたエストリンはこれまでにないほどに狼狽えていた。このメイドの忠誠心は間違いなく本物なので、こんなことで信頼を損なう関係ではなくとも己が原因で二人に誤解を与えては寝覚めが悪いと思い、アスティマはばつが悪そうに立ち上がりながら正直に白状する。


「俺がエストのASMRってヤツを見つけてついガキみたいにからかってしまったんだ」


「え‥‥‥」


 エストリンが少し驚いたような声を出した。さっきまで子供のようだった大人が急にまともになったから戸惑っているのだろう。それを聞いただけでエイトとレナは何が起きたのかを大体把握したようだ。


「ああ‥‥‥リンのアレを聴いたんですね」


「それはダメですよ、アスティマさん。あれは部屋で一人で聴くためのものです」


「そうなのか‥‥‥?だが少なくとも、からかうために使うのは間違っていたな。ましてや出会ったばかりの他人だと言うのに。エスト、悪かった。この通りだ」


 アスティマは己の非を認めエストリンに向き直って深々と頭を下げた。レナとエイトの言葉にならない戸惑うような声が聞こえて来たが、相手の許しを得ていないのでそのまま頭を下げ続ける。すると「ふっ」と小馬鹿にしたような短い笑い声の後、後頭部に人の手が触れる感触があった。まさかこの女、俺の頭を撫でている?何様だ?困惑のあまり思わずそれを声に出しそうになりながらもアスティマが辛うじて堪えていると、エストリンはやけに饒舌に話し始めた。


「良いです、許して差し上げます。要するに小さな子が好きな子に意地悪をしたくなるようなものでしょう?まぁあなたは戦いばかりの日々を送ってきた人ですから、そういった情緒が発達しなかったのですね。それなのに突然私のような美女と一つ屋根の下で暮らすことになってしまっては理性のタガが外れてしまうのも無理からぬこと、このくらいは今後も大目に見て差し上げます。ですが悪ふざけに留まらずお嬢様や奥様や私たちに形容し難き破廉恥な行いをしたならその時は絶対に許しません、分かりましたか?」


「‥‥‥わ・か・り・ま・し・た」


 アスティマは鬼の形相で頭を撫でられ続けながら、ここで我慢しなければまた下らない言い合いが始まるのは明白だと己に言い聞かせひたすら耐え忍ぶ。何を言われてもここは耐え難きを耐え部屋に戻るのだ、その一心で頭を撫でられ続ける。今日以前に人に頭を撫でられたのがいつだったかなどもう覚えていない。世が世ならアスティマの屈辱として教科書に載っただろう。


「ふぅ、もう良いです、頭を上げてください」


「り、リンちゃん‥‥‥いや、二人のことなのでアスティマさんが良いなら良いんですけど‥‥‥」


「り、リンって僕たち以外の近しい男の人とはそんな感じになるんだ‥‥‥‥‥‥」


「近しくないです!!!!」


 エストリンはエストリンで調子に乗り過ぎた結果、大切な二人からの信頼に少しダメージを負ったように見えなくもないのでここで痛み分けとするのも悪くはないだろう。アスティマが心の中で俺は負けていない、これは敗北ではないのだと必死に言い聞かせ部屋に戻ろうとすると、「待って下さい」とレナに引き止められた。


「リンちゃんのアスティマさんへの接し方は個人の自由として、ケンカは両成敗ですからね。リンちゃんも謝って」


「‥‥‥はい、返す言葉もございません」


 やはり家の者には従順だった。レナはエストリンを姉のように慕っていると思われるが、決してその意識に甘えない関係ということなのだろう。


「アスティマ様、日頃から礼節を欠いた態度を取ってしまいまして誠に申し訳ございませんでした。英雄らしからぬ貴方様のご寛大さに甘えてしまいました」


 真摯で真面目な謝罪ながらも若干の言い訳がましさを感じないこともない。アスティマは己に向かって深々と頭を下げるエストリンを見て頭を押さえ付けてやりたい衝動に駆られたが、必死にその衝動の方を抑え付けながら大人の対応を心掛ける。


「‥‥‥お前の態度はむしろ助かる。頭を上げろ」


「ひえっ‥‥‥‥‥‥」


 別におかしなことは言っていないはずなのにエストリンから明らかな嫌悪感が伝わる。アスティマはもう今後このメイドと親しくなる未来が見えなかったが、それもまた人生だろう。世界中から嫌われたって良い、要は強さ、力こそが全てを解決する。強ければ命まで取られることはないのだ。そうしてアスティマが己の持論に浸っていると、エイトがボソッとおかしなことを呟いた。


「‥‥‥なんか面白そうだから、そのうち二人でコラボ配信してくれません?」


「断る」「お断りです」


 その後、アスティマとエストリンは埃を立ててしまった部屋の掃除を申し出た。エストリンは一人でやると言ったが、今回は流石にアスティマも我を通す。二人はレナとエイトが見守る中で手際良く掃除をし、それを終えると挨拶をしてダイニングルームを離れた。それまでの間、先程まであの調子だったわりに掃除では妙に息の合っていた二人の姿を、何やらエイトが思案顔でじっと見つめていた。


 因みにこの翌日、アイクォーサー・アムル・ルージュは「過去の己を見つめ直しより一層のクオリティ向上を目指す」という分かるような分からないような理由で、一度全てのASMRを非公開にした。これにより決して少なくないファンが涙を飲んだのはまた別の話。

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