第1話

ある日、押し包むように深い霧を分け入って乙女の湖を流れてくる舟があった。

湖面は静かで湖の乙女たちは眠っているようだった。

 

舟の上の小柄な人影はじっとうつむいて辛抱強く耳を澄ましていた。

だが聞こえるのは平和な静寂ばかり。やがて人影は鈍々のろのろと自分を引き込む手を探し水を覗きこんだ。暗い色の水にフードを深く被った影ばかりが映っていた。

 

──わたしはここにいるのに

 

声はもう長らく使っていなかったが、心がそっと言葉をこぼす。

 

湖面に黒影を映した少女には名前があった。

だが誰の記憶にも色味を残すようなことはなく鉛筆のかすれのように灰色で、少女自身にとってはわずわしさばかり呼び起こす記号のようなものだった。

 

誰でもない者としての時間の方がはるかに長かった。それは楽だったが、なにかがゆるりと死んでいくのだった。

死んで消えてかかっているなにかが惜しまれて、彼女は舟の上にいたのだった。

 

──わたしはいるのに

 

湖にこぼした声なき言葉が落ちたのは眠る水の乙女たちの夢の中ではなく、彼女たちが共に泣いて慰め、笑いあやして、歌い踊り、引きちぎって破裂させて、剥ぎ合わせてくっつけ、それから再び興味を引くまでしまっておかれる無数のなにかのうちのひとつだった。

 

は声なき言葉に目を覚まし、水の乙女たちが眠っているなか湖上の少女目指して上昇した。

水影を破って突き出た人外の異様な腕に、かすれた名の少女は目をみはった。

腕は彼女に歌い返した。

 

 ──わたしはここに 

   そこかしこに そこら中に


 少女は湖面から突き出る、必死ですがるものを求めるかのような手を、自分を求めているかのように見えるその形を魅入みいられたように見詰めた。

 歌は確かに彼女に向かって歌い返されたのだ。

 それはかすれた名の少女にこたえたのだった。

 躊躇ためらいつつもそろそろと、おぞましい腕に向かって、彼女の腕が伸ばされる。


「キャアアアアアァァッッ────」


 水を波立たせるような悲鳴に一斉に目を覚ました水の乙女たちが湖上に姿を見せる。

 踊るような仕草で声の主を探し霧をかき回す。


(霧に哀しみの香りが漂っているのに)

(まだ魂から絞り出された苦い味が残っているのに)

(絶望の旋律を水に歌った誰かがいたのに)

(いないわ)

(誰もいない)

(いなくなったわ)

(隠れているの?)

(いいえ、いなくなってしまったわ)

 

誰もいない舟から千切り取られた片腕が取り出される。


(ここにいたわ)

(いいえ、いなくなってしまったわ)

(わたしたちと啜り泣くのが大好きだったあのこの匂いがするわ)

(誰かに拾われたの、水の子守唄を歌ってちゃんとしまっておいたのに)

(誰が拾っていってしまったの?)

(わたしたちと啜り泣くのが大好きだったのに)

(淋しいわ)

(淋しいわ)

 

乙女たちが集ってむせび泣くと、水竜巻が起こって舟を沈め、舟底に溜まっていた鮮やかな赤い血も暗い水に呑まれて消える。



       ***


お伽の国では、黒ピエロと白ピエロが大臣と側近を務めている。

二人とも極めて職務熱心である。

 

黒ピエロはこれぞというものを選んでは放り出しては情熱的ににオモチャを散らかし、それから目をかけているオモチャの笛で万国旗を出して遊ぶ。

 

白ピエロは降ってくる誰も書き留めることのなかった音楽を聞きながら広間中を踊りまわる。

 

玉座では子供の王様が眠たげにしている。

踊っていた白ピエロが不意に転倒すると、王様はあくびをし、黒ピエロが万国旗の笛を吹きならした。

白ピエロが顔をしかめ耳をふさいで首を振る。それを見て今度は黒ピエロがサルのタンバリンをたたく。

 

白ピエロは黒ピエロにしかめ面してから玉座に駆け寄って大声で天から落ちてきた予言を耳打ちする。

「来るよ」「来るよ」

「なにか、真っ黒で怖ーいものが」

 

王様はキャッ、といって逃げ出す。

白ピエロは落とした王冠とマントを拾って追いかけ、その後をしばし選択に迷った挙げ句に黒ピエロは黄色いアヒルちゃんとビーチボールを持って追いかける。


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