パンドラの箱

緋雪

過去のことではないよ

 箱の中は真っ暗で

 闇の中に溶けたものが

 何かの振動をうけて

 時折ドロドロと渦を巻く

 

 鍵を締めたつもりでいても

 何かの拍子で開くことがある




 母親から電話があった。


「あんた、ひでちゃん覚えとる? ほら、幼稚園から一緒やったやろ」


 嬉しそうな声の母に、特に何も言うまいと、私は普通に振る舞った。電話のこっちは、しかめっ面だ。もう関わりたくない人の一人。


「ああ、ひでちゃん、今、便利屋さんやってるんやろ?」


「何で知っとるん?」

「前に、お母さんが言うてたやん」

「そうやったっけ。今日、たまたま会うてなあ。懐かしいけん、ようけ話したがな」

「そう」 


「あの子なあ、可哀想なんで。娘さんが20歳で亡くなってなあ、奥さんも癌なんやと。あの子、お母さんも自殺したんやんな、いつやったか」

「高校3年のゴールデンウイークやったな」

「なんでそんなこと覚えとるん?」

不思議がる母に、私は、躊躇ためらいもせずに言った。

「私は、そのことを知って、気持ちがおかしくなって、自殺未遂したんや、その日」

母は電話の向こうで驚きの声をあげた。


「小学校6年生の時、ひでちゃんが私のことをいじめ始めんかったら、クラス全員からいじめられることなんかなかった。高校までいじめられてて、ずっとひでちゃんのこと恨んでた」

「そんなことがあったんなあ。まあ、あの子、言うたら悪いけど頭は良うなかったもんなあ」

「恨んでたけどな、あの子のお母さんが亡くなったって聞いたとき、ああ、ひでちゃんも辛いんや、思って。辛いんは私だけじゃないんやと思ってたらな、気がついたら手首切ってた」

母の驚く声。


「知らんやろ。ずっとサポーターとか、時計で誤魔化してたから」




 箱が聞いてくる。

 開いてもいいのか?

 お前の母親にその闇を見せるのか?

 

 どこか嬉しそうで楽しそうな口ぶりで。




「子供の時のことやないの。もう済んだことやん」

母が困ったように言う。

「そうや、子供の頃のことや。だから、私はもう誰も責めるつもりはない。その一番の原因を作った先生のことは許すつもりはないけどな」

そこで教師がどんなことをしたか、母親に言う。

「だけど、『いじめ』が、私の悲観的な性格を作ったのは事実やし、今の病気にも繋がってるんや」

「そうなん?」




 ぶちまけろ

 ぶちまけろ

 箱は手を叩いて喜び 

 自ら逆さまになって

 中身をこぼした




「私の、痛みの病気の原因は、人生における複数回の過度のストレスによるもの、っていわれてるんや。いじめや虐待、性被害なんかを幼い頃に経験した人が、大人になって大きなストレス……配偶者の死や、DVなんかのストレスを受けたことが引き金となって、体の痛みが始まる。痛みは四六時中ずっと続いて、治療法もなければ、治る見込みもない」

「でも、そのうち良うなるよ」

「何の根拠があって、そんなこと言えるの?」

「なんでも悪い方に考えるからやろ。ええ方に考えなさいよ」

「今、私の言ってたこと聞いてた? 悲観的にしか考えられんようになったのは、『いじめ』が原因なんよ?」

「ええようになるって思ってたらええようになるよ」

「なりませんね」

「なんでそう決めつけるの?」

「良くなるどころか、どんどん進行していく。痛いだけやから死にもしません」

「そんなん、私に言われても……」




 箱がわら

 お前の過去は人を傷つける

 人を絶望的な気分にさせる

 だから俺を開けるなというのにな




「もうええわ、あんたと話してても平行線や」

諦めるように母が言う。

「わかってくれんでもええよ。ただ、私の同級生に、私のことを話すのはやめて。許してないわけではないよ。ただ、『過ぎたこと』でも『過去のこと』でもないから、私には。一生物の苦しみやから、これからも」

「どうせえっていうん?」

「だから、私のことを、ひでちゃんに何でもかんでも喋るのはやめて、ってだけ」


 痛みの発作が始まった。


「発作が始まったから切るよ」

「……わかった」


 発作の苦しみも、リアルな声で聞かせるべきだったか? 気休めのプレガバリンとトラマドールを口の中に放り込みながら思う。



 気絶しそうな痛みの中、私は、箱を拾い上げ、それが撒き散らした黒いものを拾い集めて箱に戻し、蓋をして鍵を締めた。



 母を傷つけるつもりはない。

 何も知らないあなたの幸せを祈る。

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パンドラの箱 緋雪 @hiyuki0714

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