推しと量子力学

阿々 亜

推しと量子力学

 俺の目の前で、二人の少女が対峙していた。


真白ましろもわかんないヤツだね」

紗優さゆのほうこそ」


 一人は制服を気崩しており、襟元は開かれ、スカートは短い。

 髪の色はかなり明るい茶色で毛先に軽くウェーブがかかっている。

 目元も唇もごく薄くだがメイクをしており、絵に描いたような高校生ギャルである。


 もう一人は制服を第一ボタンまできちんと留め、学校規定のリボンタイをきちんと締め、スカートも校則通りの長さである。

 髪の毛は黒いショートボブで、前髪が目元ギリギリできれいに切りそろえられている。

 ノーメイクだが、顔立ちがとても整っており、まるで日本人形のような美しさがある。


「正しいのは私の推しよ」

「いいえ、正しいのは私の推しよ」


 茶髪の方は小川紗優おがわ さゆ

 黒髪の方は山内真白やまうち ましろ

 ともに高校2年生である。


 二人は今激しく対立し、両者一歩も引かぬ攻防を続けていた。

 二人の争点は互いの“推し”だった。


“推し活”という言葉が世間に浸透して久しい。

 アイドルだったり、アニメキャラだったり、俳優だったり、声優だったり、VTuberだったり、様々な“推し”があるが、ときに“推し”は争いを生む。


 そして、今、この二人も自分の“推し”への愛が深すぎるがゆえに、互いの“推し”を否定し、いがみ合っていた。


 相手を強く睨みながら、力強い声で小川紗優が言い放つ。


「正しいのは私の推し!! ニールス・ボーアよ!!」


 ニールス・ボーアなんだよなー……

 小川の推し、ニールス・ボーアなんだよなー……

“量子論の育ての親”と言われるデンマークの理論物理学者、ニールス・ボーアなんだよなー……

 女子高生なのに……


 小川に負けじと山内真白も力強く言い放つ。


「いいえ、正しいのは私の推し!! アルベルト・アインシュタインよ!!」


 アルベルト・アインシュタインなんだよなー……

 山内の推し、アルベルト・アインシュタインなんだよなー……

“20世紀最高の物理学者”と言われるドイツ生まれの理論物理学者、アルベルト・アインシュタインなんだよなー……

 女子高生なのに……


 お前ら、女子高生だったら、イケメン俳優とかイケボ声優とか推せよ!!

 なんで、20世紀の理論物理学の二大巨頭推してるんだよ!?


「ミクロの物質の運動は私たちには正確に測定することは不可能よ!! サイコロのようにどの目がでるかわからない!! それは確率で考えるしかない!!」

「何が確率で考えるしかないよ!? ミクロの世界であっても、そこには理路整然とした法則があるはずよ!!」

「私たちが観測しようとしたとき初めて姿を現すんだから、それまではどうなっていようと構わないじゃない!?」

「馬鹿じゃないの!? 自然は私たちが見ようが見まいが、あるべきところにちゃんとある!! 私たちが見ていないときでも、月はそこにある!!」


 EB論争なんだよなー……

 アインシュタインとボーアの量子力学論争……

 コイツらのケンカ、完全にEB論争なんだよなー……

 女子高生なのに……


 お前ら、女子高生だったら、カーストのマウントの取り合いとかでケンカしろよ!!

 なんで、量子力学の考え方でケンカしてんだよ!?


 俺の不満をよそに、二人の口論は続く。


「月なんてマクロなものと安易に結びつけるからおかしなことになるのよ!? ミクロの世界にはマクロの世界の理屈は通用しないわ!! ミクロな粒子は観測されるまでは複数の状態が重なり合っている!! そして、私たちが粒子を観測したときにはじめて、確率が収束し状態が確定する!! つまり存在するようになるのよ!!」


 コペンハーゲン解釈……


「馬鹿げてるわ!! 翌年中に爆発する不安定な火薬樽があったとして、それが一年後、爆発した状態と爆発していない状態の中間だなんて考え方、まともじゃないわ!!」


 アインシュタインがシュレーディンガーに送った手紙……


「ミクロの事象を安易にマクロの事象に当てはめるないでって言ってるのよ!!」


「ミクロとマクロを切り離して考えるべきだって言うんだったら、繋げて考えざえるえないようにしてあげるわ!!」


 山内はそう言って教壇に上がり、チョークを手に取り黒板に四角い箱の絵を描き始める。


 あー、出たよ……

 来ると思ってたよ……


「紗優の推しの考え方を打ち破るために、私は必死に考え、そして辿り着いた!!」


 いや、自分で考えたみたいに言うな!!

 どうせ、“シュレーディンガーの猫”だろ!!


「ここに箱がある!! この中に放射性物質とガイガーカウンターと青酸ガスの瓶を入れる!! この放射性物質が1時間後に原子崩壊している確率は50%!! ガイガーカウンターが原子崩壊を検知すると青酸ガスの瓶がハンマーで壊れされる仕掛けをセットする!!」


 山内は黒板にチョークの白い線で放射性物質とガイガーカウンターと青酸ガスの瓶とハンマーを次々に描き込んでいく。


「そして、この箱の中に……」


 最後に山内は猫の絵を……え、猫……


 山内が描いた絵は俺の目には猫に見えなかった。


「犬を入れる!!」


 いや、猫ーっ!!

 んなとこでオリジナリティー出してくんなーっ!!


「1時間後に原子崩壊して、ガイガーカウンターが放射線を検出して、装置が作動して犬が死ぬ確率は50%!! でも、紗優の推しの考え方だったら、箱を開けて犬の生死が観測されるまで犬は生きている状態でもあるし死んでいる状態でもある!! でも箱を開けなくても、箱の中で生死は確実に決まっている!! この矛盾をいったいどうやって説明するっていうの!?」


 山内はそう言って、チョークの先をびしっと小川に突きつけた。


「なっ……そんなの……」


 小川は、“シュレーディンガーの猫”……じゃない、えーと、“山内の犬”に絶句し完全にひるんでいた。

 が、必死に反論の言葉を絞り出す。


「犬がかわいそうじゃない!!」


 いや、ここで急に話のIQ下げてくんなー!!


 その後も二人は、確率解釈やら、不確定性原理やら、EPRパラドックスやらと思われる内容を持ち出しては口論を続け、果ては山内がまた箱の絵(たぶんアインシュタインの光子箱だと思われる)を描きだしたが、もう俺は内容を聞く気にもならなかった。


 てか、お前ら、なんでEB論争の時代の知識しかないんだよ……

そのあとの“ベルの不等式”の破れとか知ってたら、もうこのケンカどんだけ無意味かわかるだろ……


「神はサイコロを振らない!!」

「神が何をなすべきか、何をなさざるべきか語るなかれ!!」


 口論は続く。

 そんな二人と黒板に描かれたシュレーディンガーの猫モドキを見比べながら、俺は気づいた。


 あー……

 わかった……

 コイツらは、放射性物質と青酸ガスだ……

 俺は猫だ……

 ここは閉じられた箱だ……

 俺は一時間後、生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない……


 俺がそんな妄想にふけっていると、突然二人の矛先が俺に向いた。


『先生!!』


 二人は声を揃えて言う。


『先生はどう思いますか!?』


 俺はため息をつく。

 そして泣きたくなってきた。


「お前ら……」


 俺は、うっうっと声を上げて泣いてしまった。


「アインシュタインとボーアでそんだけケンカできるんだったら、定期テスト落とすなよー……」


 俺の名は天崎修二あまさき しゅうじ……

 物理のテストで赤点をとったこの二人の補修授業のために、この箱(放課後の教室)に閉じ込められた猫(物理教師)である……




 推しと量子力学 完

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