テディベアを捨てない
恋人が出て行った。テディベアを残して。
ある夜、仕事から帰宅すると恋人の部屋がすっからかんになっていた。予感があったのかもしれない。驚かない自分に、驚いた。
家具はもちろん、歯ブラシやイニシャル入りのマグカップまで、ありとあらゆる私物が消えていた。ただひとつ、寝室のテディベアを残して。これは同棲を始めてすぐ、デート中に恋人がクレーンゲームで獲得したものだ。どちらのもの、というわけではなかったのだが。
「いっちゃん、けんくんは?」
「出てった」
「帰ってこないの?」
「もうここには戻らないってさ」
寂しさはぬいぐるみも喋らせるらしい。つまり私とテディベアは同じ男に捨てられたのだ。
翌朝、油のはねる音で目がさめた。ソーセージの焼けるにおいに誘われてキッチンに入ると、テディベアが朝食を作っていた。
「いっちゃんおはよう」
「おはよう。いただきます」
テディベアは恋人のイスに座るとスイッチが切れたように動かなくなった。
食事をすませると、テディベアをベッドに寝かせてブランケットをかけた。そういえば恋人も、料理やら洗濯やら、慣れないことをすると反動ですぐ横になった。
キッチンに戻り洗い物をした。そろそろ着替え始めなければいけない時間だが、何もかもどうでもいい気持ちでぬくもりの残るベッドに潜り込んだ。
「ちこくしちゃうよ」
「休もうかな」
「けんくんいつも言ってたでしょ。赤ちゃんじゃないんだから、しっかりしなよって」
「わたしは赤ちゃんだもん」
「困ったねえ」
テディベアが恋人の口まねをするから、昨夜から我慢していたものが溢れた。テディベアがまるい手を当てて、涙を吸い取ってくれた。
「いっちゃん」
「ごめんね」
「いいんだよ」
「衣類の日かな」
「ぼくなら可燃で大丈夫だよ」
せめて綺麗に泣こうと努力していたのに、ダムは決壊してしまった。大人になってはじめて、声をあげて泣いた。
「大丈夫。卒業なんだよ、いっちゃん。いつかまた、どこかで会おうね」
「ありがとう」
思い出だけじゃ生きられない。
ずっと一緒にいたかった。
テディベアをゴミ袋に詰めて部屋を出た。
アパート前のゴミ捨て場には、恋人の私物が散乱していた。
<おわり>
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