立石とのディナー
同期の立石美桜との昼休みハンドクリーム事件は瞬く間に広がった。
受付一課のLIMEグループに立石が俺の前で屈み、指にハンドクリームを塗る写真が貼られたことを皮切りに、その写真が社内LIMEに漏洩、拡散された。
おかげさまで男性陣から見せしめのように吊し上げられている。
どこの誰かは知らないが、俺の顔写真と火炙りイラストのコラージュがLIMEに貼られて祭事のような盛り上がりを見せている。
救いなのは仕事に支障が出ない程度には、我が社の社員たちは人格者だということだ。ちょっとしたささくれ対応に、少し心を痛める程度で済んでいる。
後輩とのタイムランには、拗ねた犬のスタンプが貼られていた。
これはあとでご機嫌を取っておかないと不味そうである。
そろそろ退社時間だ。月曜日の夜は定時で上がり、さくっと小説を書き上げて公開したため時間に余裕ができた。火曜日の今日は少し残業をしていこうと思う。
「平林、噂の彼女がお迎えだぞ」
「はい?」
庶務課が響めいた。
「ごめんね、きちゃった」
いや、きちゃったって……
庶務課の入り口に帰り支度をした立石がいた。
「平林君、今日は……残業?」
「お、おう。残業しようかと——」
聞き耳を立てていた同僚の大久保さんと後輩の竹田に無理やり引っ張られた。
「馬鹿、お前仕事寄越せ! 俺たちがやっておいてやるから今日は帰れ」
「えっ——!? いや、悪いですよ」
大久保さんが立石を気遣って声をかける。
「立石さん、大丈夫だから!」
「すいません、ご無理を言ってしまって……」
ここぞとばかりに竹田が立石に声をかける。
「大変ですよね。噂になってるみたいだし」
「私の軽はずみな行動で皆さんにご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありません——」
「いやいやいやいや!」
立石の清楚オーラに当てられて、全員が舞い上がってしまっている。
「お恥ずかしい限りです。そのことで対策と言いますか、平林君と相談がしたいと思いまして——」
何故か、大久保さんと竹田にグッドラックで送り出された。
立石の私服はすでに春を思わせる装いだった。
ラベンダー色のブラウスを上品に着こなし、茶色の春用コートを畳んで手に持っていた。
「展望レストランに行きましょうか」
その一言に俺は目を丸くする。
「迷惑をかけちゃったから、今日は私のおごりね♪」
そう言って彼女はエレベータホールへと歩いていく。
膝下まである白いスカート、そのレースの部分が歩くたびに優雅になびく。間違いなくブランド物のお高い服だ。
白は汚れるだろうなと、そんなことを思いながら現実逃避をしていた。
チンッと気持ちの良い音が響いた。最上階の1つ下、そこにあるのは展望レストランだ。夜景を一望しながらディナーを楽しめる観光デートスポットでもある。
だがこのレストランに受付嬢が来ることはほとんどない。
何故なら一課の同僚に見つかるからだ。
「いらっ——!?!?!?!?」
めっちゃ驚いている。
「予約していた立石です」
「お、お席にご案内します……」
俺は彼女の後ろを、まるでお上りさんのようにキョロキョロしながらついていく。
ここにくることは何度かあったが、住む世界が違うといえば良いのだろうか。とにかく落ち着かない。
「立石様をお連れしました。奥野さんよろしくお願いします」
ウェイターに引き継いで、受付の彼女は戻っていた。
「立石様、当レストランをご利用頂き誠にありがとうございます。本日担当させて頂く奥野と申します。何かありましたら気兼ねなくお声かけください」
「ありがとうございます」
エスコートされて着席すると、俺も同じように着席する。
ガラス張りの向こう側を眺めながら彼女は呟いた。
「綺麗だよね」
夕闇が広がっていた。都心の煌めきが徐々にその強さを増して幻想的な光景が広がるだろう。
「うん、綺麗だ」
何よりも目の前にいる彼女が一番綺麗なのだが、そんな臭い台詞を言えるわけがない。
こちらを向いたので、俺は慌てて窓側へと視線を向けた。
挙動不審な俺の姿を、彼女は頬杖をしながら微笑ましそうに見詰めてくる。
「な、何?」
「どこを見て言ったのかなって気になっちゃっただけ。さぁ、注文しましょ」
注文をして料理が運ばれてくる合間、彼女は俺に謝罪した。
「平林君、ごめんなさい」
「いや、こっちは全然問題ないんだが、立石さんは大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。庶務課の平に尻尾振っててウケるって、後ろ指を指されるくらいかな」
——受付一課、ドロドロしてて怖いんですけど!
「それって、大丈夫なのか?」
「陰口なんて日常だよ。今は私のことよりも平林君の方が心配かな」
彼女はこちらへと身を乗り出してくる。
「私に作戦があります」
「……聞こうか」
内緒話のようなので、腰を浮かせて顔を近づける。
「同僚に無視されて心を痛める平林君に、責任を感じた私は慰めようと寄り添います」
俺は一旦中腰を止めて彼女から離れる。
気のせいか? 火に油を注ぎましょうと聞こえたんだが……
「それで?」
彼女は再び腰を浮かせたので、再び中腰になって耳を向ける。
「同僚のみなさんはこう思います。心優しい立石を心配させてはいけない。平林君と仲良くしないとと」
俺は考えるために再び椅子へと腰掛けた。彼女に思考を読まれないために天井を見上げる。
——こいつ今、自分を心優しいとか言ったんだが?
まぁ、総合受付を担当するくらいだから、何かしら腹に一物を抱えてないとあそこには立てないんだろうけど……
彼女はどうだっと鼻息を荒くしつつ、ウキウキしながら返答を待っている。
火に油を注いて、さらに注いだら火が消えますよと言っている。だが火が消えたあとも、それはそれで大惨事なのでは——?
俺が発言しようとした瞬間、彼女は言葉を被せてきた。
「はい、時間切れです。私たちの共同作戦は採択されました」
料理が運ばれてきた。ソムリエがワインの銘柄を説明してくれるも、右から左でさっぱり頭に残らない。取り敢えず値打ちのあるビンテージワインだということだけが理解できた。
ソムリエはガスバーナーを用意すると何やら金具を加熱し始める。
凄い演出である。ワインのボトルを開けるだけだというのに大事になっていた。
金具を十分熱した後、それでボトルの口を挟み熱し始めた。俺の知ってるワインの開け方じゃない。果たして一本いくらするワインなのだろうか。
「それじゃぁ、乾杯しましょうか♪」
「お、おう」
ワイングラスを重ねた。楽器のように澄んだ音色が響いた。
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