朝、そして新たなお題「ささくれ」
憂鬱な月曜日の朝が来た。
電車から下りて徒歩数分。商業用ビルが立ち並ぶ一角に自社のテナントビルがある。中央部分は吹き抜けで1階と2階にはコンビニや薬局、おしゃれなカフェやブランド店など多くの店舗が入っており、駅前という好立地も相まって沢山の人で賑わっている。
総合受付では見目麗しい我が社の受付嬢が三人並んで朝番をしていた。
七分丈から見える細い腕を前で重ね、角度のついた美しいお辞儀で出社する人たちを出迎えていた。首元のスカーフは各々が自由に選べるようになっており、見ず知らずの紳士達からスカーフをプレゼントされてしまい、処分に困っているらしい。
そんな情報を教えてくれた受付嬢と目が会った。同期の
前に流れた長い髪を手で掻き上げる仕草に、男性の誰もが目を奪われる。スタイルの良さは語るまでもなく、彼女達に少しでも良いところを見せようと、既婚者までもが気合いを入れる。
彼女たちの制服はいつ見てもシワがない。汚れも無いし、塵のひとつもついていない。探すのが難しいほどだ。
総合受付はエリートが集まる一課の中でも、さらに最高峰の一角に与えられる名誉職だと言われている。だが任期は短い。早ければ1年。遅くとも2年すればいなくなる。
——何故かって?
他の会社のエリート組が放っておかないからだ。
というのも、3階から6階に各部署が入っており、7階から上を貸し出す形になっているため、他社の社員とも顔見知り、担当した会社の受付で仲良くなるなど外部との接触が非常に多い。
ちなみにこのビルの全ての階に受付が存在しており、我が社が業務委託という形で受け持っている。これはこのビルに入居する場合の決まり事になっている。
「おはようございます」
挨拶をして通り過ぎるのだが、彼女達は平社員の俺をできる限りいないものとして扱う。分を弁えろよ、痴れ者がということなのだろう。
だが顔見知りである同期は、ぱっとしない俺にも笑顔を向けて挨拶を返してくれる。
「おはよう平林君、眠そうだね」
「昨日遅かったんだ」
立ち止まるわけにもいかないため、さよならと手を上げ、ちょっとした会話で通り過ぎる。
「先輩、あの人って庶務課の平社員でしたよね?」
「挨拶しても大丈夫なんですか?」
——どういう意味だ!
優しくしたら惚れられるとでも思って……いや、否定できんわ。
しかし本当によく人を覚えているものだ。それが仕事と言われればそれまでなのだが、総合受付に抜擢されるほどなのだ。実力は折り紙付きのようだ。
エレベータを通り過ぎ、階段で3階の庶務課へと向かう。そこに俺の席がある。
普段はここで多くの部署をサポートしている。
メールをチェックすると、寺崎常務からの返信があった。
『次の経営会議で平林君の提案を議題に出すから、説得力のある説明と資料を頼む』
我が社は言い出しっぺの法則を採用するチャレンジャーな会社だ。
そういう意味ではやりがいがある。そうとは知らず新入社員のときに、我が社を盛り上げるために何か無いかという質問に、冗談で言ってみた企画が取締役会で採決されるに至ったのは良い思いでだろう。取締役会としては調子に乗っている新人をちょっとビビらせて、分らせてやろうという悪戯めいた気持ちだったのかもしれないが——お互い悪ノリして戻るに戻れなくなった結果が、この一等地に立つ自社テナントビルの不動産事業と派遣業、そしてブライダルや旅行などといった事業の多角化による急成長だった。
資料作りをしていると、あっというまにお昼がやってきた。
このビルの3階部分には、緑のある庭園が社員だけに開放されている。
天気が良さそうなので、今日はそこで昼食を取ることにした。
コンビニで買ったお茶とおにぎり2個が入った袋を片手に、ベンチへとへたり込んだ。
「天気でも外はまだ寒いか。上着を着てこれば良かった」
スマホ片手におにぎりをかじる。今日の昼にKACのお題が更新されることになっている。第三回の「箱」に関しては、なんとか昨日の夜に公開することができた。
ほっとした束の間、新たなお題がカクヨムのトップ画面に表示された。
『KAC2024 第4回お題「ささくれ」』
俺は指先を見る。ささくれがあった。これを小説にしろというのか。何をどう考えたら『そうだ、今回のお題はささくれにしよう!』となったのか。俺はそこが気になって仕方がない。
「ささくれ……笹くれ……パンダ?」
だめだ。全く浮かんでこない。運営は俺を甚振りにきたようだ。彼らは言っている。
『ほら、ささくれを見てご覧。気になってきただろう?』
「
気になったが最後、この欲求に俺は抗えなかった。その先にはあの痛みが待ち受けていると分かりきっているのに。
思いっきり引っ張った。
「痛っ——」
想像以上の激しい痛みが俺を襲った。肉が抉れて血まで出てきてしまった。
運営が今、ニヤリと笑った気がした。
「あぁ……やっちまった」
コンビニで貰ったウェットティッシュで傷口を拭いて抑える。
「大丈夫? 見せて——」
俺に駆け寄って声をかけてきたのは、今日の朝に挨拶を交わした同期の立石美桜だった。どうやら一連の動作を見られていたらしい。
彼女の後ろから受付の制服を着た女性が二人やってきた。どうやら三人で昼食を取っていたようだ。
彼女は屈んで、手に持っていた白い革のポーチから絆創膏を取り出した。さらりとした長い髪がその細い肩から溢れ落ちるように流れていく。
良い匂いがする。何故に良い匂いばかりする女性がこの会社には多いのか。
「指、出して……結構深くいっちゃったね。はい、終わり」
「あ、ありがとう……立石」
「あーあ、平林さんが美桜先輩に惚れちゃった……」
「気があるように見せかけといてさ、立石さんって罪な女ですよね〜」
俺の目の前できゃっきゃと戯れ合う。
「もう、からかわないで」
だが彼女はまだ立ち上がらずに今度はクリームを取り出した。
「ほら、指出して」
「えっ? 何を——」
「ささむけは予防が大事だから、ね」
俺の手を無理やり取って指先にクリームを塗り始めると、さすがに同僚が止めに入った。
「美桜先輩、さすがにそれはまずいですって!」
「えっ——?」
「平林さんにご迷惑が、うちの立石が本当にすいません」
「いや、迷惑だなんて。ありがとう、立石」
「うん。それじゃ私たち行くね」
おまけと言わんばかりにネクタイを直され、これで良しと軽くぽんっと叩かれた。
「あ、ありがとう」
面倒見が良すぎると怒られる彼女の背中を見送る。
「よう、平林」
「おっす、平林」
「うぃーす、平林先輩」
「ちょっと良いかな、平林くぅぅん?」
俺は死んだ。
このあとしばらく会社の同僚から、ささくれ対応を受けたのだった。おかげで小説のネタが浮かんだことは喜ばしい。それだけが救いだった。
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