チャンスは逃さない

「先輩、大変です。起きてください」

「どうした、昨日遅かったんだが……」

 朝の挨拶おはようを交わしたあとの会話である。

「——そうだ。それですよ、先輩! 昨日の夜、パソコンに向かって必死にキーボードをカタカタ言わせていましたけど、一人で何をしていたんですか?」

「……小説を書いていたんだが?」

「——小説!?」

 スマホを握ったままぶらんと腕を落とし、目を丸くしたまま固まってしまった彼女は、寝癖のついた長い髪も相まって何だか幽霊のようだ。何かを言いたそうにこちらを見ている。

 KAC2024に参加している俺は、とにかく時間を見つけて少しでも前に進まねばならない。今回の小説の締め切り日は月曜日の昼前。だが俺の場合は、仕事が始まる前日、日曜日の夜となる。だがお陰様様で構成をまとめることができた。これなら明日にでも仕上げることができるだろう。

 ふと時計を見ると朝の8時を過ぎていた。俺は顔を洗うためにから起き上がった。


「朝食の準備をするからテーブルに座っとけ。パンで良いか?」

「はい、ありがとうございます」

 男の部屋が珍しいのか、落ち着きなくきょろきょろしている。

 トースターにセットし、コーヒーメーカーのボタンを押す。

「先輩って、一人暮らしですよね?」

「あぁ」

 ほっと胸を撫で下ろす後輩。

「結構広いですよね。お風呂とおトイレも別々だし、1DKだと結構なお家賃なのでは?」

「会社の家賃補助使って15万円くらいだな」

「ぜ、贅沢すぎませんか? 入社1年目の私の手取りも多いですけど、その三分の1が消えているんですが?」

「贅沢って言われても、役員は最低ライン15万って決まってるんだよ。車に関しては推奨って形にはなってるけど、持っていれば月3万円の補助金が出る。ただし車出勤が強制されるけどな」

「な、なんですか、その決まりは?」

「社員のモチベーションアップ施策のひとつ」

「というか、いまさらっと役員って言いませんでしたか? 先輩27ですよね?」

「俺の年齢を知っていることに恐怖を覚えるんだが、社長の鶴の一声としか言えないな。ただの執行役員で施策執行済みの役員だよ。だから今やってることは平社員の仕事な訳よ」

「優秀な方だったんですね」

 真面目な顔でそんなことを言うので俺は笑ってしまった。『段ボール箱に入っていたのに』と余計な一言を言わないあたり、彼女は真面目で優しい性格をしている。

「うちの社員達やろうどもが予想以上にな」

 ちょうどパンも焼けたので、お皿に乗せてテーブルへと運ぶ。


 椅子に座ってコーヒーで喉を潤すことにする。

「そういえば、大変って何が大変なんだ?」

「そうでした。大変なんです。社内LIME見てください。受付嬢が男性社員にお持ち帰りされたと凄いことになっています」

 コーヒー吹いた。一瞬で頭が覚醒した。

「俺たちのことか?」

「残念ですが、違いますね」

 昨日は男性社員に取って、またと無いワンナイトチャンスだったようだ。あの混雑具合なら、普段はガードの固い受付嬢たちも、帰りを少し遅らせようと思ったに違いない。

「お互いが合意の上でなら良いんだが……どうした?」

「あっ……いいえ、何でもありません」

 彼女は一瞬固まって、嬉しそうに微笑んだ。

「うちの男性社員だと本気で手を出しかねないな。コンプライアンス相談窓口があることは、研修で周知されているよな?」

「はい。ただ……」

 彼女は少し言い辛そうにする。

「何か気になることがあるんだな。遠慮せずに言って欲しい」

「相談窓口があるとしても、組織の一部だと思うと相談し難いと言いますか……」

「……やはりそこか」

 広報企画部の秘書課と受付課は、そのほとんどが女性社員で構成されている。何かしらのハラスメントトラブルが発生するとしたら、まずここだろう。

 社外窓口として顧問弁護士を起用してはいるが、やはり会社側に雇われいるという関係上、被害者が信用して相談できるのかという問題もある。

「うちの会社も腹を括る時が来たかもしれないな。今度の経営会議で提案して貰えるように、寺崎常務に掛け合ってみるよ」

「……誰ですか? 私の知っている先輩じゃありません」

 警戒した演技がなかなか様になっている。なら俺もそれに応えようじゃないか。

「一応、役員として任期が残ってるからね? 謹みたまえよ、新入社員君」

「本当に似合いませんね」

 何やら可笑しかったらしく、くすくすと笑い出した。さきほどの優しい子を撤回したいと思う。


* * *


お知らせ

令和6年3月18日 役員会議を経営会議に変更致しました

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