箱からの脱出は一口の攻防から始まる
「……ここのようだな」
ひと目見ればわかるお高い外観をしていた。
普段なら絶対に入らない場所だが、今日の目的は箱寿司にある。多少の出費も小説を書くための経費と経験だと考えれば安いものである。
「先輩。私が言うのもなんですけど、お財布大丈夫ですか?」
「カードが使えるかどうかだな……」
二人分の支払いとなると正直不安だ。
だがありがたいことに、店の入り口にカードや電子マネーのロゴが並んでいるのを確認できた。お互い顔を見合わせて胸を撫で下ろす。
「いらっしゃいませ!」
カウンターに案内されると、ちょうど目の前に色とりどりの箱寿司が飾られている。どうやらあそこから切り分けてお寿司を提供してくれるようだ。
「覚悟してくださいよ、先輩」
「何でも頼め」
美人がにししと笑うと、それだけで何もかもが許せてしまう。
「んー何を頼みましょうか」
正直迷う。定番のサバに、サーモン。あなごも捨てがたい。こういう店で迷ったら、お任せに限るだろう。ほら、品書きに丁度良いものがあるじゃないか。
「お任せのところにある『春の彩り』で。あと生ビール小ジョッキで」
「私も同じものをお願いします」
「あいよっ!」
注文を受けて担当してくれる寿司職人が動き出す。じっと眺めていると、たすきを掛けた着物美人がお通しと、注文したビールを運んできてくれた。
「ありがとうございます」
後輩がそれを受け取り、どうぞ先輩と手渡してくれる。
「ありがとう」
「先輩って小ジョッキなんですね」
「あぁ、あとで日本酒も少し頼もうかと思ってな」
「日本酒、ですか……」
お互いをお疲れさまの一言で労い、グラスを鳴らしてビールを半分ほど飲み干す。
彼女は四分の一ほど。お酒に強いというわけではなさそうだ。
「頼むぞ、酔い潰れるなよ? マジで困るから」
「残念ですね。ビールジョッキ小では少し難しいかもです」
「何が残念だ。それで良いんだよ」
その一言に、彼女はニンマリと笑った。何かを企んでいそうな顔だ。
待ち時間は盛り付ける時間だけだったようで、想像以上にスピーディーに配膳された。
「うわー、きれいですね。サーモンのピンクに、アナゴの琥珀色。鮮やか緑色はお野菜ですね。凄い、宝石みたいでとても綺麗……食べるのが勿体ないくらいです!」
さすが我が社の受付嬢。お作法はお手の物のようで、いただきますから始まり、お箸を手に取る動作から、口に運ぶ動作まで、どこを取っても絵になるとことが恐ろしい。職人さんもこれは良客と満円の笑みを浮かべていた。
「わぁ〜、美味しい!」
彼女のその一言で、職人さんの笑みはさらに深くなる。一度だけ頷いて仕事に戻っていった。
何度か箸を動かして舌鼓を打つと彼女は言った。
「わ、もうお腹が膨れてきました。小柄でとっても可愛らしいのに」
「少食だな、と言いたいところだが確かにそうだな。ご飯を押し固めているから想像以上に腹が膨れる。ならそろそろ注文するか」
残りのビールを飲み干して、日本酒一合を熱燗で追加する。しばらくすると黒い徳利が運ばれてきた。気を利かせてくれたようで、お猪口が2つ置かれていた。
後輩の視線はそのひとつに釘付けである。考えていることは少し味見をしてみたいと言ったところだろう。
余ったお猪口を空になった小ジョッキの外側に隠し、熱燗をお猪口に注ぎ飲み干した。
……これだよ、幸せというのは。美味い寿司、上手い酒。この世の極楽とはまさにこのことだろう。そして横には美女、の据わった視線……が思いっきり突き刺さっていた。こいつもしかして、もう酔ってないか?
「先輩、美味しそうに飲みますね……」
「実際、美味いからな」
「私も……」
「ダメだ。お前、絶対に酒弱いだろ」
「バカ言わないでください。小ジョッキ程度で、お持ち帰りできる安い女だと思わないでください!」
「思わねーよ! 思いたくもねー」
「わかりました」
「わかってくれて何よりだ」
そう言って彼女は携帯電話を取り出して、ボイスメモを起動した。何をおっ
「先輩も携帯を出して、ボイスメモを起動してください」
「あ、あぁ……嫌な予感しかしないんだが」
「あーあー、私、木下葵は先輩とお酒が原因で大人の関係を持ってしまったとしても、全責任を問わないことをここに誓います」
「
「
彼女も成人している大人だ。さすがにそこまで覚悟が決まっているなら……
「——良いんじゃないですかね」
迷っているとカウンターの向こう側から声がした。なんと職人さんが彼女に助け舟を出してきたのだ。
「一口くらいなら、良いんじゃないんですかね? 日本酒と魚の相性は最高に抜群ですから、お寿司をもっと楽しんで頂けるかと——」
「そうですよ、先輩! こんなに美味しいお寿司を作ってくれた職人さんに失礼ですよ!」
そこまで言われてしまったら、俺も折れるしかない。
お猪口を手渡すと、彼女は掲げて嬉しそうにそれを愛でる。
「可愛いですね」
「熱燗は飲みやすいから、飲み過ぎにはくれぐれも注意しろよ」
「大丈夫ですって!」
両手で添えたお猪口に徳利を傾けると、酒精の香りが広がる。彼女は恐る恐る口をつけたあと、目を輝かせてもう一度口をつけた。
「美味しい……芳醇な香りが口いっぱいに広がって、すっごく甘露な味わい。私これ、好きです」
「そうか、それは良かったな。なら寿司を食え」
「はぁ〜、お寿司も美味しいです。先輩、もう一口ください」
「絶対に言うと思ったよ。だからこれでやめておけ。あとで絶対に後悔するから」
俺の忠告を聞かず、彼女は熱燗をもう一合注文していた。
「さぁ先輩、一緒に飲みましょう」
「お前、本当にどうなっても知らんぞ」
空の徳利が2本並ぶころには、うっとりとした表情に、気持ち良さそうな熱い吐息。ご機嫌さんが出来上がっていた。
「先輩、身体がぽかぽかして、ふわふわして凄く気持ち良くって力が入りません」
「やれ、言わんこっちゃない。水を飲め——」
「すみません、お客さん」
一口くらいと彼女を後押してしまったことに、責任を感じているようだ。良い寿司職人さんである。
「いやいや、すべては俺の忠告を無視したこいつが悪いんです。自業自得ですよ」
会計を済ませて、店を出ると北風が吹いていた。
今はまだ三月の上旬。夜の寒さはまだ厳しい。放置するなどできるはずがない。
「おい、歩けるか?」
「無理で〜す」
「家はどこだ」
「むにゃむにゃむにゃ——」
「話にならんな。さて、これからどうするか…… 」
お約束と言わんばかりに、ホテルに連れ込む訳にもいくまい。
最悪、俺の家に連れ帰ることになるが……
困り果てていると彼女のスマホが微かに振動している。
これはもしや帰りが遅い娘を心配した、親の電話ではないだろうか。
「おい、携帯がなっているぞ。早く出ろ」
「う、うぅぅ〜〜——」
もぞもぞもぞと、まるでナマケモノのようなゆっくりとした動作で電話に出る後輩。
「もし、もし……」
「葵か、帰りが遅いが今何をしているんだ」
「先輩と〜飲んで……」
「先輩と飲んで、何だって? お前。ちょっと、その先輩と変わりなさい」
「先輩〜」
そう言ってスマホを差し出してきたので、躊躇なくそれを受け取る。
「もしもし、お電話変わりました。私木下が務めます会社の先輩に当たる平林と申します」
電話越しで、『男……』、『もしかして平林さん? あら♪』、『何、姉さんの彼氏?』などと声が聞こえてくる。
「木下葵の父です。娘が世話になっているようだが、どういった状況だろうか」
「はい、実は——」
各各然然、人身事故の影響でしばらく電車が混み合いそうだったのでと、箱寿司を食べる経緯を説明し、彼女が日本酒を飲むことになった原因を説明する。
「私が熱燗を飲むのを見て、一口飲みたくなってしまったようで。強いお酒ですから止めたんですけど……」
「どうしてもっと強く止めてくれなかったんだね」
だよなぁ。できれば使いたくなかったが、彼女の父親に納得してもらうには、伝家の宝刀を抜くしかなかった。
「すいません、これを聞いてもらえますか」
『あーあー、私、木下葵は先輩とお酒が原因で大人の関係を持ってしまったとしても、全責任を問わないことをここに誓います』
電話越しで家族全員が絶句しているのが分かる。
「と、言われてしまいまして、彼女の携帯にもこれと同じものが録音されていますので、後ほどご確認ください」
「あぁ、そう……で、だよ。平林君は、だね。娘をどうするつもり、なのかな?」
「どうすると言われましても……」
「あぁ、いや、結構。そこまで娘が言い切って泥酔したのなら、さぞ君を信頼してのことだろう。だができれば男としての責任は果たして欲しい。娘は君の家にでも止めてくれたまえ」
「あ、えっ、あの、待ってください。迎えにとかは?」
「娘も良い大人だ。箱入りにしすぎても良くないだろう。娘は美人で可愛いだろう?」
「はい、それはもう。俺たち男性社員の間では彼女はアイドル的存在ですから」
「そうか、そうだろうな。君も鼻が高いに違いない。うん、今度挨拶にきなさい。それじゃぁ、娘をよろしく頼むよ」
「あ、はい。わかりました……失礼、します」
しばらくして、木下家からの通話が終了した。終了してしまった。責任を取るなら、お持ち帰りしても良いよと。
……待って欲しい。いつの間にか、俺の逃げ道が無くなっているんだが?
「先輩」
「起きたか?」
「末長く、愛してくださいね」
彼女と結婚前提のお付き合いを始めることになりそうだ。
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