あのときのこと

此糸桜樺

 亜麻色の砂浜。ざざざと波打つ海岸。淡い空色の下に沈む瑠璃色の海を見ながら、私たちは砂浜に座り、ただ何でもない時間を過ごしていた。

 海開きはまだまだ先で、夏になると賑わうこの砂浜も、今の時期は観光客は誰一人としていない。


「あのさ。これ、音灯おとひにプレゼント」

「プレゼント?」


 和浦かずほから渡されたのは、両手で持つほどの大きな箱だった。

 光沢のあるつやつやとした漆黒と鮮やかな朱色。重厚感のあるデザインにずっしりとした重さ。見るからに高価なその箱は、思わず目を奪われる美しさを纏っていた。まさに昔の化粧箱のような見た目である。


「え、こ、こんな素敵なもの貰っていいの?」

「ああ。音灯が好きそうだなと思って。どうかな」

「……うん。とっても綺麗」


 私はそっとその箱を受け取った。


「開けてもいい?」

「もちろん」


 私は昔から、美しい工芸品を見るのが好きだった。博物館で蒔絵まきえ螺鈿らでんなどを見ると、ついつい気持ちが高ぶってしまう。

 これが、日本人の奥深くに根付いた感性というものなのだろうか。

 静かに蓋を開けた。中もやはり光沢のある美しい装飾が施されていた。


 しかし、不思議な点が一つあった。もくもくと煙が生まれているのである。もともと故意に煙を閉じ込めていたような感じではない。

 この箱自体から、のだ。


「……げほっ、これ、なんなの?」


 私が咳き込みながら言うと、和浦はふっと微笑んだ。


「はるか昔、君が持たせてくれた『玉手箱』だよ。音灯も浦島太郎伝説って知ってるだろう? ……やれやれ、あのときは僕も酷い目にあった」


――玉手箱?


 どうしてだろう。なんだか懐かしい響きのある言葉だと思った。


 その瞬間、水面に映った自分の顔を見て、私は絶句した。

 頬に刻み込まれた皺が何層にも連なり、くすんだ肌にはシミがポツポツと点在している。その姿はまるで――老婆。


「な、何これ? やめて、やめてよ!」


 頭が追いつかないうちに、みるみるうちに老化が進んでいく。

 体は痩せこけ、髪は抜け、全身から力が抜けた。


「あはは。ちょっとした復讐だよ、音灯……いや、乙姫」


 意識が途切れる刹那、和浦かずほが幸せそうな笑みを浮かべているのが目に映った。でもそれは、死にゆく間際の幻覚のほんの一瞬に過ぎなくて。






 音灯の亡骸は、さらさらと砂のごとく崩れ、跡形もなく消失した。ゆるりとした風が吹けば、亜麻色の砂とともに巻き上がり、そして海の向こうへと消えてゆく。


「君は鶴にはなれなかったんだね」


 静かな砂浜で和浦かずほは、ぽつりと呟いた。


 深い瑠璃色の海は、あのときと同じ表情でただ、ざざざと波打つのみであった。

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あのときのこと 此糸桜樺 @Kabazakura

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