中編
その春、わたしは大学を卒業し、組織に入った。
二泊三日、霊山の、すそ野の研修施設で新人研修オリエンテーションに参加するのが手はじめだった。
指定された駅に到着したのは、夜明け前だ。駅すら、まだ開いていない。
緊張している。ボストンバックを持つ素手が、夜明け前の冷気にかじかむ。
新人研修オリエンテーションの
わたしは、
こんな時間に、車待ちをしている人などいない。
いや、いた。サングラスにマスクをしている人が、他にもいた。
(絶対に、同じ組織に入所する人だ)
ガン見はしないように、気をつける。
集結途中に私語は交わしてはならないと、
(はやく迎えの車が来ないかな)
わたしは、ジャケットの肩をすくめる。
迎えが来るまで、あと数分だ。
集合時間に遅刻の者は、その場で採用取り消しと
(それは、そうだ。かりにも組織だもの)
すると、暗闇の中に車のヘッドライトが近づくのが見えてきた。一台の黒いワゴンがやってきて、駅前ロータリーにすべり込んだ。その車は、わたしの目の前に止まった。
この車が迎えの車だ。
ワゴンの後部ドアがスライドして開いた。
わたしが、いちばん乗りをためらっていると、運転席からサングラスにマスクの人が降りてきた。
「
気がつくと、わたしのうしろには男の人が、ふたり立っていた。もちろんサングラスにマスクだ。
わたしが助手席に座り、男の人ふたりが後部座席に座った。
「十三分ほどで着きます」
運転席の人が言った。
思わず、「はい」と、返事をしそうになって飲み込む。
うしろのふたりも、うなずいただけ。声を出してはいけないのだ。
わたしたちの乗ったワゴンは、本当に時間きっかり十三分で、森の中の白い建物に着いた。とても乗り越えられないほどの高い塀で、建物のぐるりを囲んである。黒のワゴンがロートアイアンの門扉に近づくと、電動なのだろう、自動で開いた。
屋根のある車留めで、無言で車から降りる。
玄関が開くのを、しばらく待った。ここでも、何らかの認証をしていると思える。
意外だったのは、建物内が土足厳禁だったことだ。
そこで待っていた若手の組織員に、靴を脱ぐようにうながされた。彼もサングラスとマスクをしている。
わたしたちは、おのおの下駄箱に靴を収め、旅館でよく出てくるスリッパに履き替えた。
ワックスで光っている床に三人分のスリッパの音が、ぺたぺたと響く。
そのとき、わたしは、わざとゆっくりとした動作でもって、いっしょに来たふたりのあとについたのだ。
男のひとりは背が高く、ひとりはがっしりとした体躯。背が高い方は同年代か。がっしりとした男は年かさに思える。転職組だろうか。
組織員は十二畳ほどの部屋に、わたしたちを連れて行った。会議室というほど殺風景ではなく、応接間というほど華美ではない。
移動式ホワイトボードと、大きな突板の
「好きな席に座ってください」
組織員が、むずかしいことを言う。
上座が、どこかわからない。わたしは最年少のはずだ。他、ふたりの出方を待った。
入り口から近い
わたしは、(お誕生日席はないな)と、そのふたりの真正面にならない位置に座ることにした。
だが、実際には三人とも座っていない。
「よろしいですよ。座って待っていてください」と、組織員が言ってから、やっと三人は椅子に座った。
すると、別の組織員がワゴンを押してきた。
ワゴンには、給湯ポットと
手際よく組織員の手で、給湯ポットから藍色に白い水玉の
掛け紙に〈弁当〉と書かれているから、弁当だ。
「召しあがれ」
抑揚のない声で組織員は告げると、去って行った。
そして、黙食の弁当時間が終わるころだった。
「それでは、ディスカッションタイムに入ります」
中堅だろう組織員が部屋に入ってきた。
「入所、おめでとうございます。本日、講師役を務めさせていただきます、——————です」
わたしは緊張のあまりか、そのときの講師役の名前を覚えられなかった。
「さて、早速でございますが、同期として信頼関係を築き、組織の一員としての自覚を持つため、互いのコードネームを考えていただきます」
おぼろげながらは知っていた。組織員は本名は外部に明かさない。コードネームで行動する。
「自分で自身のコードネームを考えると、どこかに自我が出てしまうものです。組織の人間は陰です。陰になりきらねばなりません。ですから、縁もゆかりもない他人が出した言葉のかけらをヒントにして、コードネームとしていただきます」
講師役は、ホワイトボードに向き直った。
「例として、欠番となったコードネームを書いておきますね」
全てを 破壊しながら 突き進む バッファローの 群れ
「セキュリティの関係上、この長さを推奨しています。以上」
いきなり重い課題が任されたものだ。
コードネームは定年退職まで使うものだ。いい加減に決めてはいけない。
「なにか、もう草原の風景しか浮かばないんですけど……」
背の高い彼は、
今はサングラスとマスクをしているが、さきほど、弁当を食べている彼を失礼がない程度、わたしは観察した。悪くなかった。
「思いついたことを書いて、シャッフルして決めるとか」
ガタイのよい彼が提案してきた。もちろん、今は、サングラスとマスクをしている。彼のことも、わたしは観察した。お父さん世代だった。
「はい。ちょうどよく、ここに抽選箱がありますよ」
誕生日席で、わたしたちを見守っていた講師役が手品のように、辺が二十センチほどの厚紙製の立方体の箱を取り出した。おあつらえむきに、面のひとつに丸い穴があけてある。
「ミニ折り紙もメモ用にあります。ボールペンも」
それから、わたしたち三人は、互いの生い立ちやエピソード、専門科目を持ち出して語った。それは、本名や年齢や、肝心なことは語らないという奇妙な談笑だった。
思った通り、ガタイのよいお父さんは
あと二十五年、家のローンが残っているとぼやいた。
背の高い彼は、院卒の研究畑の人だった。卒業論文は、〈善玉菌〉についてだという。
「善玉菌……」
お父さんがミニ折り紙の裏の白い部分に、ボールペンで書き込んだ。
「コードネームなんですよ」
背の高い彼が、いくぶんあわてた様子で止める。
「かっこいいのにしてください」
「イキったコードネームなんて、恥ずかしいぞ。フツウがいちばんだ、フツウが」
「組織に入所した時点で、フツウの生き方じゃない」
彼は、さびし気に笑った。わたしも賛同する。
「君は、メルボルン生まれの多摩育ちだったね」
彼は、わたしに話をふってきた。
「メルボルンって呼ばれたい? それともタマ?」
「いや、互いの境遇や趣味趣向をシャッフルして交換するんでしょう? だとしたら、メルボルン、またはタマって呼ばれるの、お父さんか
わたしはいきなり、彼らを〈お父さん〉と〈
「うわ。顔に似合わない横暴タイプだな」
〈お父さん〉は、おおげさに驚いてみせた。
向こうも私を観察したわけか。あぁ、わたしは見た目、無邪気な童顔ですよ。セーラー服を着せれば、中学三年生くらいには化ける自信がある。組織が、わたしを採用した理由のひとつだろう。実際、最終面接にはセーラー服で行ったし。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます