第56話 破滅
新宿の街を、リコは半ば無意識に走っていた。
人々の話し声や足音、クラクションやエンジン音、すべてが頭の中でごちゃごちゃと響き合い、割れそうに痛い。
言葉にならない叫びが、リコの喉を締めつける。
怒り、悲しみ、焦燥感、そして何より、深い孤独。いくつもの感情がリコの全身を駆け巡り、狂おしいまでに心を揺さぶる。
視界がねじ曲がり、とめどなく涙が溢れてくる。それは悲しみの涙などではなく、自分自身への苛立ちの涙だった。
「もう……嫌だ……」
リコは立ち止まった。
心臓が激しく脈打ち、息が詰まる。このままでは、本当に発狂してしまうかもしれない。そんな恐怖が、リコの心をさらに追い詰める。
「どうすればいいの……」
その声は都会の喧騒に吸い込まれ、誰にも届かない。
全身に冷たい汗が滲む。足が震え、呼吸がままならない。
『もはや希望の光は、米つぶ程度もないのかぁぁ!』
聞こえるはずのない、MCの声が聞こえた。リッキーとかいう、あの男の……。
うるさいうるさいうるさい! 私の邪魔をしないで!
バッグからKARIMO取り出し、残り時間を確認しようとしたが、見るのが怖かった。画面の数字が、動かしがたい絶望的な現実を突きつけてくる気がした。
全身の力を振り絞り、リコはKARIMOを地面に叩きつけた。鈍い音が響き、画面が蜘蛛の巣状にひび割れる。
震える足で何度も踏みつけると、乾いた音と共に、画面が完全に砕け散った。
リコは自分の手首に装着された腕輪に目を落とした。強引に引っ張ってみるが、ビクともしない。
これさえなければ……。
腕輪に視線を据えたまま、しばらく見つめていると、何かが脳裏で閃いた。
リコは再び走り出した。雑踏をかき分けながら、駆け抜けて行く。視界の端で流れていく車両、行き交う人々、それらすべてがぼやけて、目指すべき場所だけが頭の中で鮮やかに浮かんでいる。
絶対、どこかにあるはず……
そう自分に言い聞かせながら走り続ける。体中が悲鳴を上げているのに、疲れを感じなかった。
やがて「天華苑」と書かれた看板が目に飛び込んできた。中華料理店で間違いないだろう。リコは呼吸も整えぬまま、店のガラス扉を勢いよく開け放つと、そのまま迷わず厨房へと突き進んだ。料理人たちが忙しなく働く熱気と強烈な油の匂い。そんなものは気にも留めず、奥へと歩みを進める。
厨房のスタッフたちは突然現れたリコに戸惑いの表情を浮かべてはいるが、自身の仕事に手一杯なのか、声をかけてくる者はいなかった。
広い厨房内のあちこちに視線を彷徨わせながら、目当ての物を探す。
神経を研ぎ澄ませ、素早く確認していく。
そしてそれは、すぐに見つかった。壁に掛けられた何本もの中華包丁。
リコは手を伸ばしかけて、ピタリと動きを止めた。
ふと見ると、その中に斧のような形をした、重厚な肉切り包丁があった。
リコは躊躇することなく、それを掴んだ。
そして近くにあった調理台の上に、腕輪が装着されている左腕を乗せた。
「ちょっと……君?」
声をかけられたが、視線をやる余裕はなかった。
迷ったらダメ……何も考えちゃダメ……
肉切り包丁のずしりとした重みを感じながら、高々とそれを振り上げる。
自由に………………なる……
次の瞬間、渾身の力を込めて振り下ろした。
鈍い痛みが走る。激痛は一瞬にして頭のてっぺんまで駆け抜けた。
腕輪を付けたままの手首が、ゴロリと転がった。
「……ああっ……!」
鋭い痛みに耐えきれず、思わず悲鳴を上げた。
腕を押さえて、その場にしゃがみ込む。
周りの人たちが口々に何かを叫びだし、厨房内は瞬く間にパニック状態となった。
息を荒らげながら痛みに耐えていたリコは、気力を振り絞って立ち上がった。混乱して声を上げるスタッフたちを、押しのけるように進んで行く。
店外へ出ると、再び走り出した。
すれ違う人々が皆、リコに視線を向けてくる。悲鳴を上げる人もいる。右手で傷口を押さえつけてはいるが、滴り落ちる血は止まらない。けれど、不思議と痛みはなかった。痛いというより……熱かった。
奥歯を嚙みしめ、苦痛に顔を歪めながら、それでもひたすら前へ進んで行く。
どこへ行けばいい? わからないけど、とにかく……遠くへ行かなきゃ。
『何をやってるんですか! バカですかあなたは!』
再び聞こえるはずのない声。本当に幻聴なの? あのMCの声が、実際にここまで届いているのかもしれない。あの人ならあり得る。
もしそうなら、応援してよ。頑張れって言ってよ。逃げて逃げて、誰の手も届かないところまで逃げ延びて、幸せに暮らすんだぞって……そう言ってよ!
リコは走りながら泣き、同時に笑っていた。
誰のために、なんのためにわたしはこんなことをしているの?
妹のため? 違う。断じて。すべては自分のためだ。
わたしは幸せになるんだ。絶対に絶対に絶対に、誰よりも幸せに!
その時、何かの音が耳をかすめた。
これも幻聴……? 違う……足音? 明らかに異質で、異常に大きな足音が、後ろから近づいて来ている?
振り返るな。全力で走れ。走れ走れ走れ。
自分を鼓舞しながら、リコは残りの力を振り絞って走った。
後頭部にドン、という衝撃。リコは前のめりに倒れ込んだ。
とてつもない衝撃ではあったが、痛みよりも先に、悔しさがその胸に渦巻いた。
なんで……わたしが何したっていうのよ……
「連行します」
沼の底から囁いてくるような鈍い声が、頭上から降ってきた。
全身に鳥肌が立つほど、冷徹で不快な声だった。
黒い制服に身を包んだ大きな男は、リコを軽々と肩に担ぎ上げた。
やめて……下ろしなさいよ……
そう言葉に出そうとした瞬間、リコの意識は途絶えた。
*
新宿の街。目の前に広がるその光景は、何度も見たはずのものだったが、まったく別の世界へポンと放り出されたようだと感じた。
スタジオを出てから建物の外へ出るまで、随分と時間がかかってしまった。早く歩こうとはしているが、その気持ちとは裏腹に、足が重くて思うように進まなかった。
ここまで共に戦ってきたパートナーは、もういない。父親がいなくなることが、これほど心細くて寂しいものだとは思わなかった。
これからどうやってお題をクリアすればいいの……。くるみは頭を働かせようとするが、他人のもののようにそれは機能しなかった。
地面に頭を思いきり打ちつけてやれば、動き出してくれるかな……。本気でそんなことを思った。
あと数十分経てば、購入した分の時間がなくなる。このまま時間を購入し続けても、いつかはお金がなくなって買えなくなる。そうなったら終わりだ。連行されて強制労働となってしまう……。
もし連行されたら、収容施設みたいなところでお父さんに会えるのかな……それならそれでいいかもしれない……。
……本当? 本当にそう思う?
お父さんが命をかけて次へ繋ごうとしてくれたのは、なんのため?
私を優勝させるためでしょ?
だったら、最後まで諦めずに……戦わなきゃ。ここまできて心が折れてどうするの。
お題は、なんだっけ……? 動物の……死体だ。
どこに行けば手に入るの? それを手に入れるためならなんでもする。
周辺に視線をやっていると、小さな犬を抱いて歩いている人を視界に捉えた。四十代と思しき女性が、チワワを包み込むように抱えて、見るからに幸せそうな表情で。
犬……? あれを……あれを殺せば……
くるみはその女性に近づいて行った。
女性のすぐそばまで来ると、チワワと視線が合った。なんの苦労も知らずに、楽しく穏やかな人生を送ってきた、幸せな動物の目だった。
くるみは女性の背後に迫ると、チワワに向けて手を伸ばした。
その時、何者かに肩を掴まれた。あまりの握力に、肩に激痛が走る。
振り向くと、見上げるほど背の高い二人の男がいた。暗い目で、くるみをじっと見下ろしている。
連行人……? なんで?
「待ってよ……なんであなたたちが来るのよ……」
すると男の一人が、くるくると丸まった何かを、くるみの目の前で広げてみせた。
真っ黒かったそこがパッと明るくなると、見慣れたMCの姿が立ち現れた。
「おめでとうございまぁぁす! UKC、第三十回大会のチャンピオンは、柿谷くるみさん、あなたに決定しましたぁぁぁ!」
新宿中に轟くかと思うほどの声量で、リッキーが吠えた。
チャンピオン? 私が……?
何が起きたのか、理解が追いつかなかった。
これも演出なの? 何をやらせようというの?
「状況が飲み込めていないようですね。とにかくこちらへ戻って来てください! 待ってまぁぁぁす!」
リッキーが言い終わると同時に、目の前の薄っぺらいモニターから、思わず耳を覆いたくなるほどの、大きな歓声が聞こえてきた。
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