第55話 執念

 リコは道端で足を止め、見知らぬ人々に声をかけては尋ね続けていた。


「すみません。あの……あなた、金メダル持ってませんか?」

「はい?」

「オリンピックの金メダル、持ってない?」

「いや……持ってないです」

「本当に?」

「すみません、急いでるんで」


 若い男は怪訝な表情を張りつけたままそう言うと、足早に行ってしまった。


「なんでよ」


 焦りと苛立ちが入り混じった声が、喉からこぼれ出る。額に滲み出る汗を手の甲で拭い、それを地面に叩きつけるように腕を振る。

 リコはビルの陰から現れた中年の女に駆け寄った。


「あの……オリンピックの金メダルって持ってませんか? 持ってたら貸してほしいんですけど」

「え? 何?」

「だから金メダルよ金メダル。家族の誰かが金メダリストだったりしない?」


 女は困惑した表情で後ずさり、ごめんなさいと言って逃げるようにして去って行った。

 どいつもこいつも、なんなの。なんで持ってないのよ! 金メダルのひとつやふたつ、持っときなさいよ!

 リコはすれ違うカップルにも訊ね、スマホをいじっている少年にも声をかけた。しかし誰もリコの期待する答えを返してはくれなかった。

 大丈夫。大丈夫よ。これだけ人がいるんだから、金メダルを持ってる人もいるに違いないんだから。

 その時、バッグの中からピィィィという警告音が鳴った。


「ジカンギレマデ、アトサンプンデス、ジカンギレマデ、アトサンプンデス」


 慌ててKARIMOを取り出したが、汗で滑って地面に落としてしまった。自分のミスなのに怒りが湧いてきて、KARIMOを踏みつけてやろうかと思った。

 乱暴に拾い上げると、素早く画面をタップして、二千万円で一時間を購入した。三時間連続の購入で、獲得賞金は八百万円まで減ってしまった。もう時間を買うことはできない。残り時間は一時間。

 思わず叫びそうになった。どうしてこうなったの! どうして!

 リコは自分の胸の内に、入院中の妹に対する殺意が湧いたことをはっきりと感じた。


「もうとっくに、ここにあるはずなのに……」


 そう呟き、左右の手のひらをじっと見つめる。自分のその独り言さえも神経にさわり、苛立ちが増殖していく。

――もう一度オリンピックミュージアムに行って、無理矢理に強奪してくればいいじゃない?

 頭の中でもう一人の自分が囁いてくる。

――ケースを叩き壊して、奪ってやればいい。それだけで、簡単に金メダルが手に入るじゃない。

 本当? それって本当にできるの? UKCはそういう犯罪行為は認められてないんでしょ? ダメよ。絶対にダメ。そんなことしたら、そこで終っちゃうから! だからって、じゃあどうすればいいの!

 わたしは一体、誰と喋ってるの?

 きょろきょろと周囲を見回す。どこに行けばいい? 誰に何を聞けばいい?


 大きく息を吸い込むと、リコは走り出した。何かを思いついたわけではなかったが、体が勝手に動き出していた。じっとしていると、頭がどうにかなってしまうような気がした。

 走っているうちに何か閃くかもしれないという淡い期待感だけを燃料に、狂気にも似た焦りを抱えたまま、リコは新宿の街を走った。


      *


 博の顔は青白く、命が少しずつ体から抜け落ちていくようだった。呼吸をするたびに、その胸は微かに上下するが、徐々にその動きは小さくなっていた。

 私が……お願いしたから……。

 一緒にUKCに参加してほしいと父親にお願いしたのは、ほかの誰でもなく、私だ。父親を巻き込んでまで、こんな危険なゲームに参戦した理由が、自分でも信じられないほどくだらないものだった。

 あの時の私は、隆一にフラれて自暴自棄になっていた……。UKCで大金を手に入れたら、ポンと一緒にずっとのんびりと暮らしていける……。ただそんなことを考えて、危険極まりないデスレースに出ようと思ってしまった。


 今思うと、もし連行されて強制労働になったとしても、それはそれで仕方がないと思っていたのかもしれない。連行された先で死ねばいいだけだと、開き直っていたのかもしれない。だけど、父親は違う。のんびりと田舎で普通の人生を送っていた。それを……私が壊したのだ。

 そして今、人生どころか、命までも奪おうとしている……。自分のくだらない欲のために、父親の命が消えかけている。

 心の中に広がる後悔がせり上がってきて、くるみの喉をぎゅっと締めつけた。


「ごめんなさい……」


 自分の軽率な行動がひとつひとつ思い起こされ、心を押し潰していく。

 博は微かに目を開け、苦しげな表情でくるみを見つめた。その目にはくるみを責めるような色はなく、ただ穏やかに見守っているようだった。


 こんなところで……父親を死なせるわけにはいかない。

 父親を見殺しにして大金を手に入れたとしても、そんな人生に意味なんてない。

 そんなことに、今頃気づくなんて……私はなんてバカなんだろう。


「くるみ……ナイフ……抜いてくれないか……」


 博が震える声で懇願する。

 ナイフを抜いたら、血が溢れ出てきてすぐに死ねる……。それを狙っての発言なのだろう。


「できない……できないよ……」


 くるみのその声は、観客のどっと沸いた声に重なり、博に届いたかどうかわからない。


「どうやらリコさんは、新宿三丁目あたりにいるようです。水道橋の悪夢から立ち直り、なんとか気力を振り絞って頑張っているリコさんですが、どうでしょうか。この様子だと、まだ金メダルは見つかっていないようです」


 もう一人の競技者の様子を伝える映像が流れ始めたようだ。

 金メダルを探しているということは、サイコロを振らされて出たゴールドカードのお題を、まだクリアできていないということか。


「道行く人に尋ねていますが……さすがにそれは無理があるでしょうねえ」


 くるみは立ち上がった。


「リッキーさん」


 呼びかけてみるが、実況に夢中で気づいていない。


「さあ、勝負はいよいよ大詰めだ。今挑戦中のお題を両者がクリアするのか、はたまたどちらかが失敗して決着がつくのか。柿谷親子とリコさん、それぞれに賭けている方も大勢いるでしょう。その方たちの人生も背負って、どちらが勝者となるのでしょうか!」


 賭けている人たちの人生? ふざけないで。

 そんなのどうだっていい。他人のことなんてどうだっていいのよ!

 くるみはリッキーの目の前まで歩み寄り、大きな声で言った。


「ねえ」

「はい? どうしました?」

「父を病院に連れていきたいんだけど、リタイアって、できる?」

「リタイアですか? 普通にリタイアすることはできません。リタイアは失格扱いとなりますので、リタイアを宣言したら、即連行となります」


 そんな……。

 わずかに灯った希望の光を、完全に消し飛ばす返答だった。


「……連行されたら、父の怪我の手当はしてもらえるの?」

「はい。それは大丈夫です。怪我をしている人が連行された場合は、医療班によって手当を行いますので」


 希望の糸が、目の前に垂れ下がった。それを掴むしか、選択肢はないだろう。


「くるみ……待って……もう少し……だから」


 博が訴えかけてくる。


「……ごめんなさい」


 くるみは首を振った

 もう一度博の傍らで膝をつくと、手を握りしめ、


「連行されても……私が優勝したら、お父さんを助け出せるから」


 優勝者は一億円を支払えば、連行されたパートナーの強制労働を取り消すことができる。

 私が、優勝さえできれば……。


「絶対に勝ち残るから」


 精一杯の力を込めて、そう言った。

 くるみは再び立ち上がった。


「リタイア……させます」

「……本当に、いいんですね?」

「はい」

「わかりました。では、くるみさんの申し入れを受け、博さんをリタイアとします!」


 リッキーが言い終わると同時に、不気味な雰囲気を纏った二人の大男が現れた。無表情で冷たい目つきのその連行人は、何も言わずに手早く担架に博の体を横たえた。

 運ばれて行く博がくるみに視線を向けた。その顔は、泣いているように見えた。

 博はスタジオの奥の、大きな扉の向こうに消えていった。博の姿が見えなくなっても、そこに視線をやったまま、くるみはただ茫然としていた。


「ジカンギレマデ、アトサンプンデス、ジカンギレマデ、アトサンプンデス」


 ハッと我に返る。制限時間のことを、すっかり忘れていた。

 床に置いてあるバッグを拾い上げ、KARIMOを取り出す。

 ……何を、どうすればいいんだっけ? まったく頭が働かなかった。


「時間を買わないと! くるみちゃん!」


 観客席から声が飛んできた。

 そうだった。時間を購入しないと!

 慌ててKARIMOを操作する。

 一時間を買うのに二千万円かかるけど、一時間で足りる? 二、三時間買っておいたほうがいいのではないか?

 画面を見つめたまま、必死に頭を働かせる。


「何してんの!」

「早く早く!」


 ボタンを強く連打し、一時間を購入した。

 残り時間の表示が増えたことを確認し、大きく息を吐き出した。


「おおっと、リコさんが猛烈な勢いで走り出しました! どこへ行こうというのかリコさん。その目に何が見えているのかぁぁ!」


 リッキーががなり散らす。

 観覧客も総立ちとなって口々に何かを叫んでいる。

 くるみはチラリとスクリーンに目をやった。ただ一人のライバルの女が、必死の形相で走っていた。下手に近づいたら食い殺されてしまいそうな、そんな表情だった。


「行かなくちゃ……」


 震える声で小さく呟く。

 私も……行かなくちゃ……私も……

 くるみは重い足を引きずるようにして、ゆっくりと一歩を踏み出した。

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