第54話 苦痛の人

 リコは水道橋から新宿に戻っていた。ここまでは当然電車で来たはずだったが、考え事で頭がいっぱいだったためか、その記憶はほとんどない。気がつくとJR新宿駅のホームに立っていた。

 地上へ出るなり、再び交番に飛び込んだ。警察官は親切に話を聞いてくれたが、希望が見えるような有力な情報は得られなかった。

 人混みに飲まれそうになりながら、足早に歩を進める。私はどこへ向かっているのか、何をしようとしているのか。頭の中は、もやがかかったように真っ白だった。


 目の前に、小さなスポーツショップを見つけた。瞬間的に希望の火がともり、慌ててそこへ入ってみたが、対応してくれた女性社員によるとそこはスポーツショップなどではなく、スポーツに関する事業を営む一般の会社とのことだった。

 ショップでも会社でもどっちでもいい。リコは噛みつくのではないかと思うほどの勢いで、金メダルを所有していないかと尋ねてみた。しかし、当然持っているはずもなかった。どこか金メダルがありそうな場所を知らないかとの問いには、「大きなスポーツ関連の施設に行けばあるんじゃないでしょうか」と、最も聞きたくなかったくだらない答えが返ってきただけだった。


 表に出て、直感的に右方向へ進路を取る。

 お題をクリアするためにわたしにでもできることで、何か良い方法はないだろうか……。考えろ。何かあるはず。きっとあるはずだから。

 リコは髪の毛を掻きむしりながら、脳みそをぐちゃぐちゃに混ぜるような感覚で、必死で何かを絞り出そうとした。

 するとなぜか、ぼんやりとカコの顔が浮かんできた。リコがUKCに出場するきっかけとなった、入院中の妹。病院のテレビで母親と一緒にこの状況を観ているのだろうか。そう思うと同時に、妹二人と母親と一緒に遊園地に行った日の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 あれは確か、浅草の花やしき。それまで四人で外出したことはほとんどなく、ましてやどこかに遊びに出かけるなどといったイベント事は皆無と言ってもよく、浅草を巡って美味しいものを食べたり花やしきで遊んだりしたことは、ささやかだけれど最高に楽しかった思い出のひとつとして記憶に焼き付いている。

 小学校の低学年だったその頃のカコはまだ元気いっぱいで、屈託のない笑顔で園内を駆け回っていた。カコはミコとも仲が良かったけれど、よりリコのほうになついていて、二人でアトラクションの乗り物に乗ったり、変顔で写真を撮ったり、ソフトクリームを食べさせ合ったりなど、まるで同級生の女の子同士のようなノリではしゃいだのだった。


 今思えばあの時、ただ浮かれて楽しむだけではダメだった。

 どこかのタイミンで……たとえばローラーコースターから突き落とす、あるいはお化け屋敷の中でどさくさに紛れて首を絞めるなどしてカコの命を奪っていれば、その後カコが病気になることもなく、わたしとミコがUKCに出場することもなかったはずだ。

 なぜそうしなかったんだろう。バカなわたし。でも、できなかったんだよ。あの時のわたしには。かわいいだけの妹を手にかけるだなんて、できるわけがない。

 そんなの当たり前だ。あの時はカコを殺める理由なんて、何もないんだから。

 こんなことで自分を責めても、まったく意味がない。

 リコは頭を左右に強く振った。

 想い出なんて今はどうでもいいのよ。わたしには家族なんて知ったことではないんだから。


 ふと気配を感じた。視線を横へ向けると、ピンク色のウサギの着ぐるみがいた。チラシのようなものを差し出してきたが、「いらない」と言って、それを乱暴に手で払った。気のせいだとは思うが、着ぐるみの中からチッという大きな舌打ちが聞こえた気がした。

 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとしたが、うまくいかなかった。

 リコは人の波に飲まれるように歩き続けた。

 五分後のわたしはどうなっている? 笑っているのか泣いているのか、そのどちらでもないのか。頭の中は混沌としていたが、とにかく前に進みたかった。


      *


 リコと博がスタジオに入った瞬間、地鳴りのような拍手と歓声、そして口汚いヤジが二人を迎えた。


「おかえりなさい柿谷ペア! よくここまでたどり着きました。実に実にワンダフルです!」


 大勢の観客の声をかき消すほどの声量でリッキーががなる。


「まさかのハプニングにより博さんが重傷を負ってしまい、その博さんを〝モノ〟として持ってくるという、まさに命がけの作戦!」


 父親のことを〝モノ〟と言われて、くるみは涙がこみ上げてきそうになる。確かに自分は今、〝モノ〟として父親を差し出そうとしている……父親をただの道具として扱おうとしているのだ……。


「柿谷ペアが選んだ難易度カラーはシルバー。お題は【動物の死体】です。では、持ってきたモノを、こちらの台の上に乗せてください」


 中央に四角いローテーブルのような白い台が置いてあった。一歩一歩そこへ向かいながら、くるみは改めて覚悟を決めようとする。

 余計なことは考えない。今はこのお題をクリアすることだけに集中しないと。お父さんの気持ちを無駄にしないためにも……。

 そこで、くるみはピタリと足を止める。

 待って……UKCのルールだと、持ってきたモノが間違っていた場合、その時点で失格となってしまう……。

 まだお父さんは生きている。

 ということは……。

 くるみはリッキーに視線を向ける。


「台に乗せたら、すぐに判定が下されるのよね?」

「はい。この台に乗せるということは、お題で指定されたモノとしてそれを提出するということですからね。乗せたらすぐに調べさせてもらいます」


 やっぱりそうだ。今この目の前の台の上に、父親を乗せるわけにはいかない。


「ここに……下してくれ」


 博が言った。

 くるみは頷き、床にそっと下ろす。それから、ゆっくりと仰向けにさせた。


「そうです! よく気がつきましたくるみさん! まだお亡くなりになっていないお父様をこの台に乗せては、お題クリアとはなりません!」


 矢のようなリッキーの声が脳内の中心に突き刺さり、キーンと痛みが走った。

 お願いだから静かにして。あんたの声なんか聞きたくない!

 くるみは両手で耳を塞ぎたくなった。しかしそんなことをしても、この男の声はたやすく脳内に侵入し、頭の中で弾けるだろう。


「ちなみに、UKCは特殊な法律が適用されます。ですので、人が刺されたという事件が目の前で起こったにもかかわらず警察を呼ばなかったことや、死にかけている博さんを病院へ連れて行かなかったことなどに関して、タクシーの運転手さんやくるみさんが罪に問われることはありません。ご安心ください」


 その言葉で、恩人であるタクシー運転手の顔が脳裏に蘇る。しかし、頭の中のそれは影が差したように曖昧で、いくら思い出そうとしてもうまくいかなかった。リッキーの声のせいなのか、あるいはそれほど脳が疲れ切っているということか。


「それと、博さんを刺した男ですが、先程捕まったようです」


 どうでもいい。そう思った。刺した男のことなど、考えている余裕はなかった。

 くるみは博の手を両手で握りしめる。額には汗が滲み、苦痛にゆがんだ顔はあまりにも痛々しかった。頑張って……そう声をかけそうになったが、その台詞の違和感に気づき、言葉を飲み込んだ。今のわたしは、救急車の到着を待っているわけではない。父親が死ぬのを待っているのだ。

 圧倒的な矛盾が、そこにはあった。

 なんで……なんで父親が死にかけているのに励ます言葉のひとつもかけてやれないの。わたしは何をやっているの……。

 くるみは叫びだしそうだった。今ここで叫んでも、観客の声やリッキーの声がかき消してくれるかもしれない。けれど、くるみは叫ぶことも、父親を勇気づける言葉をかけてやることもできなかった。父の手を握りしめ、その時が来るのを、ただ待つしかなかった。

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