第53話 決断
くるみの口から悲鳴がこぼれる。自分でも何が起こったのかわからないというような驚愕の表情で博を見下ろしていた男が、くるみのほうに顔を向けた。視線が合ったような気がした。
殺される。
そう思ったが、男は乗り捨てたバイクのほうへ向かって走り去って行った。
くるみは急いで博のもとへ駆け寄り、震える手でその体を抱き抱えた。
「お父さん!」
「……くるみ……」
博の口から、弱々しい声がこぼれる。顔面はすでに青白くなっている。
「しっかりして!」
博の胸には血が滲み、くるみの手のひらを赤く染めていく。血なまぐさいその臭いが、現実の残酷さを突きつけてくる。
「大丈夫か!」
その声に顔を上げる。タクシーの運転手だった。横たわる博を見て、ハッと息をのむ。
「救急車……救急車呼んで!」
くるみが叫ぶ。
「わ、わかった」
運転手は慌てた様子でポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出す。
「待って……」
博がそれを制止した。
「くるみ……父さんを、スタジオに、連れて行きなさい……」
「何を言ってるの……」
「人間も動物だから……ね……」
くるみは一瞬、博が何を言いたいのかわからなかったが、すぐにその意味を理解した。
「バカなこと言わないで。今から病院に行けば大丈夫だから!」
「もう、助からないよ……自分のことだから、わかるんだ……」
「そんなことない!」
「このままじゃ、お題をクリアするのは難しい……だから、父さんを……」
博はそう言いながら、ゆっくりと上体を起こした。
「お願いだから……」
くるみの手を精一杯の力で、ぎゅっと握りしめる。
その時、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。
ここを目指して来ているのだろうか? 誰かが通報したのかもしれない。警察官がここへ来れば、救急車を呼ばれて博は問答無用で病院送りとなるだろう。
どうすればいいの。父親が助かる可能性にかけるか、父親の願いを聞き入れてお題クリアを目指すべきか……。
「くるみ……」
博がくるみの目を睨むように見つめてくる。
くるみは決意を固め、運転手に視線を向ける。
「運転手さん。新宿マルタまで連れて行ってもらえませんか」
「え、マルタ?」
「お願いします」
詳しく説明している時間はない。くるみはとにかく必死に頭を下げる。
「本当に病院に行かなくていいのかい」
「はい」
運転手の目を見据えて、はっきりと答える。
「……わかった。ちょっと待ってて」
運転手は走ってタクシーのもとへ向かうと、そのまま車両をくるみたちの目の前まで持ってきた。
くるみは博を支えながら、後部座席へ乗り込む。
「UKCは賭けたこともあるからちょっとは知ってるけど……その状態のお父さんを連れて行くってことは、お題のクリアに関係してるってことかい?」
「はい……」
運転手に聞かれ、小さい声でそう答える。
「俺がうまくあの男から逃げ切れなかったから……」
自分がハンドル操作を誤ったことで結果的にこの事態を招いてしまった。そのことを悔いているような言い方だった。
「そんなことないです。それは絶対に違います。私たちの責任です。あなたをこんなことに巻き込んでしまって……本当に申し訳ないです」
「そんなことはいいんだよ」
くるみは博に視線をやる。その腹にはナイフが刺さったままだ。
博は顔を歪ませながら、荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫?」
大丈夫ではないことはわかっているが、ほかに言葉が思い浮かばない。
その時、くるみの脳裏になぜか、父親と二人で自転車に乗る練習をした日の記憶が蘇ってきた。その日の博は、娘を自転車に乗れるようにするのは俺しかいないんだとばかりに、朝からやたらと張り切っていた。しかしくるみがすぐにコツを覚えて乗れるようになったものだから、コーチとしての力量をまったく発揮できず、少し寂しそうな顔をしていたことをはっきりと覚えている。
父親との思い出はいくらでもあるはずだが、ほかには何も思い出せなかった。思い出す余裕がないのか、本当にそれしか想い出がないのか、それすらもよくわからない
「ここでいいかい」
運転手の声にびくりと反応し、顔を前に向ける。新宿マルタがすぐそこにあった。
「はい、ありがとうございます」
「お金はいらないから」
運転手のその提案をありがたく受け入れようかと思ったが、くるみの頭に、ある懸念が浮かんだ。
「いえ、UKCは人の手を借りるのはルール違反なんです。タダにしてもらったら、第三者に協力してもらったとみなされる可能性があるので」
早口で説明する。
「……ああ、なるほど。わかった」
素早く料金を支払うと、くるみはタクシーを降りて、反対側のドアへと駆け寄る。体を支えながら博をタクシーから降ろす。
「頑張って!」
背後から運転手の声が聞こえたが、反応する余裕はない。博に肩を貸し、二人はゆっくりと新宿マルタの入り口に向かって、歩を進めて行く。
多くの人たちの視線を感じる。悲鳴のような声があちこちから聞こえてきたが、まるで気にならなかった。自分がやっていることが正しいかどうかはわからないが、今はとにかくあのうるさいMCのいる場所へ、一秒でも早く辿り着きたかった。
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