第52話 急襲

 警察署を出たくるみは、ようやく安堵し、大きく息を吐き出した。


「ひょっとしたら逮捕されるんじゃないかって、本気で思ったよ」


 博もこわばっていた表情をようやく緩ませる。

 二人は警察官からさまざまな質問を受け、最終的には厳重注意を受けて解放された。時間は一時間ほどだったが、二人にとっては永遠のように感じられた。

 UKCには、法律を犯すようなことをしてはならないという明確なルールがある。もし鳥を首尾よく捕まえられたとしても、ルール違反としてペナルティを受けることになっただろう。そう考えると、通報してもらえたのは、ある意味幸運だったと言える。


「それにしても、鳥だけじゃなくて野生の動物全般、勝手に捕まえちゃダメとはね」


 博が警察官から受けた説明を思い出しながら言った。


「動物を捕まえられないとなると……どうしようか……」


 博は眉間を指で揉みしだきながら、考え込んだ。

 くるみは少しの間黙っていたが、やがて博に視線を向けた。


「捕まえられないなら、どこかで借りるしかないよね」

「動物の死体を?」

「動物がたくさんいるところなら、もしかしたら、死んじゃった動物を処理するまでの間、保管してたりもするんじゃないかな」

「なるほど……そういうこともあるかもね。牧場とか? あとは、養鶏場とか?」

「普通に考えたら、動物園でしょ」

「ああ、そうか」

「となると、上野動物園かな。大きいから動物もたくさんいるし。……でも、都合よく死んじゃった動物がいるかどうか……」

「確かに、そうだね……。まあでも、考えてても時間がもったいないから、とりあえず行ってみようか」


 博の声には、再び活気が戻っていた。二人は駆け足で駅まで向かい、電車に飛び乗った。

 上野駅に着くと、喧騒の中、二人は人混みを掻き分けながら改札を抜ける。上野公園の敷地内に入り、真っ直ぐに伸びる道を早足で進んで行く。


「そういえば、くるみが小学校低学年の時に一度だけ来たよね」


 行き交う人々の波に揉まれながら、博が懐かしそうに呟いた。

 その言葉に、くるみの記憶も呼び起こされた。家族三人で訪れた上野動物園。初めて見る動物たちの姿に、幼いくるみは目を輝かせた。特に、虎の迫力と美しさに心を奪われ、長い時間檻の前から動けなかったことを鮮明に覚えている。

 二分ほど歩くと、大きな十字路が現れた。奥には上野動物園の入り口が見える。


「こんな感じだったっけ? ぜんぜん覚えてないや」


 周囲を見回しながら、博が言う。くるみも記憶の中の動物園と目の前の光景を照らし合わせようとしたが、虎をずっと見ていたこと以外は何も思い出せなかった。

 その時、けたたましいエンジン音が響いた。

 くるみは反射的に顔を横へ向けると、一台のバイクが猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。


「危ないっ」


 博がとっさにくるみを突き飛ばす。二人の間を駆け抜けたバイクは急ブレーキをかけ、その場に停止した。ヘルメットを脱ぎ棄てた男の顔を見て、くるみは息を呑んだ。マルタの前でくるみを襲ってきた、あの髭面の男だった。

 男はバイクを降り、ゆっくりと二人へ近づいて来た。その手には、鈍く光るナイフが握られている。近くにいた若い女性が悲鳴を上げた。


「人をさんざんコケにしやがってよぉ」


 男が吠える。その目の中にある、圧倒的な殺意をくるみは感じ取った。


「くるみ、逃げるぞっ!」


 二人は走り出した。恐怖が背中を押す。とにかく必死に、力の限り走った。くるみは子供の頃から足が速かったが、博も驚くほどのスピードでくるみに並走している。

 背後から、再びバイクのエンジン音が響いた。男が追いかけてきている。しかし、人混みの中、バイクは思うようにスピードを出せないようだ。

 男がもたついているとはいえ、このまま逃げ切れるだろうか。博の息は荒くなり、くるみの脚も段々と重くなっていく。 

 次の瞬間、駅前で客を降ろしているタクシーがくるみの視界に入った。


「待って!」


 反射的に叫び、タクシーの前に飛び出した。タクシーが急ブレーキを踏む。くるみは窓ガラスを叩き、


「開けて! お願い!」


 ドアが開くと、二人は慌てて車内に滑り込んだ。


「ちょっと、急に飛び出してきたら危ないでしょ」


運転手が声を荒げるが、くるみは構わず叫んだ。


「とにかく出して! 早く!」


 運転手は驚きながらもアクセルを踏み込む。

 バックミラーに視線をやる。バイクに乗って追いかけて来る男の姿があった。


「なんなんですか、いったい」


 運転手は六十歳くらいの男性で、明らかに動揺している。


「す、すみません……あの……」


 博はうまく呼吸ができず、その先を続けられない。


「追いかけてくるバイクを、なんとか振り切ってほしいんです」


 くるみの必死の訴えに、運転手は戸惑った表情を見せた。


「え? 何? バイク?」

「追いかけられてるんです」

「そんな、無茶なこと言わないでよ……」


 無茶は承知だ。そのうえでなんとかしてもらいたい。祈るような思いで後ろを振り返る。バイクはすぐそこまで迫っていた。


「もう少し飛ばせませんか」


 くるみの切羽詰まった声に、タクシーは申し訳程度にスピードを上げた。

 直後、目の前の信号が赤に変わり、タクシーは急ブレーキをかけた。タイヤがアスファルトを引きずる音が響く。

 

「止まらないで!」


 くるみは思わず叫んでいた。

 しかし次の瞬間には、停止したタクシーの横にバイクが並んだ。ヘルメットの奥に、男の不気味な笑みが浮かんでいるのが見えた。

 ドンッ、という鈍い音が響く。男がドアを蹴りながら、何かを喚き散らしている。その形相は、完全に理性を失っているようにしか見えなかった。

 ガン。男がサイドミラーを蹴り飛ばす。


「わわっ、ちょっと、勘弁してよ」


 運転手が悲鳴のような声を上げる。

 何度目かの蹴りで、ミラーは無残にもへし折れた。


「ああっ。なんなんだよもう」


 運転手はヤケ気味に叫ぶと、アクセルを踏み込んだ。くるみは両の拳を握りしめ、固く目をつぶった。後ろから迫りくる男の怒号が聞こえたような気がした。

 タクシーはスピードを上げ、狭い路地を縫うように走り抜け、バイクとの距離を少しずつ広げていった。熟練のハンドルさばきが、迫りくる危機から二人を遠ざける。

 バイクの姿は、ついにバックミラーから消えた。


「振り切ったみたいです」


 博が叫ぶように言った。

 くるみも振り返る。男の姿はない。運転手も緊張から解放されたように、深く息を吐き出した。


「どうします? 警察に行きますか?」


 運転手が聞いてくる。


「いえ、急いでるんで、それは大丈夫です」

「行かなくていいの? 本当に?」

「実は私たち、親子でUKCに参加しているんです」


 くるみが言うと、運転手が驚きの声を上げる。


「UKC? 親子であれに?」

「ええ。さっきの男は私たちに賭けてたみたいなんだけど、なぜか逆恨みされちゃって……」

「そうだったんだ。それは災難だったね」


 一瞬の静寂。そして運転手が再び口を開く。


「これからどこかに行くんですか?」

「えっと……上野動物園に行こうとしてたんですけど……」


 くるみが答える。


「今からまた行くの?」

「できればそうしたいんですけど……」

「じゃあ、送ってくよ」

「え、いいんですか?」

「ああ、いいよ」


 こんなにも迷惑をかけたのに……

 運転手の思いがけない優しい言葉に、くるみの胸の中に申し訳なさと感謝の気持ちが渦巻く。


「ありがとうございます」


 くるみが礼を言うと、


「本当に申し訳ないです。よろしくお願いします」


 博も頭を下げた。

 くるみは窓の外に視線をやりながら、長く息を吐いた。胸に手を当てると、激しく鼓動したせいか心臓が痛い。

 一秒でも早く目的地に着いてくれと願いながら、ゆっくりと呼吸を繰り返す。緊張で強張っていた体が、少しずつ緩んでいくのを感じた。

 くるみはふと、今どこを走っているのだろうかと気になった。看板や標識など何かヒントになるものはないかと目を凝らしてみるが、よくわからない。

 運転手にここがどのあたりか尋ねようと身を乗り出したその時、くるみの耳がぴくりと反応する。

 ドドドド、

 聞き覚えのあるエンジン音が、耳の中に突き刺さるように響く。

 まさか……

 ゆっくりと振り返ったくるみは、目を見開いた。


「うそ……」


 視線の先に、バイクに跨ったあの男の姿があった。猛スピードでこちらへ向かって来ている。

 異常を察した博も振り返り、


「あいつだ! なんで……」


 一瞬で車内に緊張感が張り付く。


「おいおい、勘弁してくれって」


 運転手はうんざりしたような声を上げ、アクセルを踏み込んだ。


「なんで居場所がわかったんだ」


 博が疑問を口にする。


「中継を観たんだ……」


 くるみはすぐに気づいた。


「え?」

「UKCの生中継よ!」


 暫く視界に入れていなかったのでその存在を忘れていたが、昆虫型カメラのDBがこのタクシーを撮影しながら追って来ているはずで、その映像は当然生中継のために使われる。

 UKCの生中継ではどのタイミングでどの競技者の映像が流れるかはわからない。だけど今は残り二組しかいないため、自分たちの映像が流れている可能性は高い。それをスマホか何かで確認すれば、居場所は簡単に特定できる。

 そんなことにも気づかなかったなんて、うかつだった。


「くそ、カメラか」


 博が悔しそうに言いながら、太ももを拳で強く叩く。


「逃げて!」


 くるみが運転手に向かって叫んだ。

 目の前の黄色信号は点滅していたが、タクシーはさらにスピードを上げ、突っ切ろうとした。

 しかし次の瞬間、タイヤを軋ませながら、バイクがタクシーの前に躍り出た。


「うわっ!」


 運転手は急ブレーキを踏むと同時にハンドルを切った。タクシーは横滑りしながら、街路樹に激突した。

 激しい衝撃に、車内が大きく揺れる。体が波打ち、全身に電流が走ったような衝撃があった。

 ゆっくりと顔を上げると首に痛みを感じて、思わずうめき声がこぼれた。


「……だ、大丈夫?」


 運転手が声をかけてくる。


「はい……大丈夫です」


 答えてから、隣の博に視線を向ける。


「お父さん、大丈夫?」 

「ああ、なんとか……」


 博は顔をしかめながらうなずいた。怪我はしていないみたいだ。

 突然、何かが弾ける音がした。見ると、男が手に持った棒のようなもので窓ガラスを殴りつけている。くるみは口を開け、何かを言おうとするが、声が出なかった。


「ちょっと、ああっ」


 運転手は悲鳴のような声を漏らしながら、半ばパニックになっている。

 窓ガラスが割られ、男がドアのロックを解除しようと、手を突っ込んできた。


「くるみ、逃げて」


 博が叫びながらもう片方のドアを指さす。くるみはドアを開け、車外へ飛び出した。背後で何かの音がした。くるみに続いて外へ出ようとした博がコケてしまったのかもしれない。けれど振り返る余裕はない。両足にすべての力を込めて、必死で走った。

 心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。足がもつれそうになる。


「……ろす」


 背後から男の唸るような声が聞こえた。足音が、どんどん近づいて来ている。

 振り返らずにとにかくそのまま走れと脳は命令しているが、くるみは恐怖のあまり、背後を確認せずにはいられなかった。

 くるみが視線を後ろにやると、男の姿がすぐそこにあった。その手にはナイフが握られている。

 それを目にした瞬間、思わず悲鳴が出た。

 どこに逃げ込めばいいの? どこまで走ればいいの?

 くるみは完全にパニックを起こしていた。恐怖が両足に絡みついている。うまく走れない。

 もうダメだ……

 くるみは思わず目を閉じた。


「やめろっ」


 博の声が聞こえた。振り返ると、博が男に向かって飛び掛かっていた。

 激しいもみ合いが始まる。くるみはその場に立ち尽くし、二人の様子をただ見守るしかなかった。

 次の瞬間、二人は絡み合うようにして、地面に倒れ込んだ。男が博の上に覆いかぶさる体勢のまま、二人は動きを止めた。


「ううっ……」


 鈍いうめき声が聞こえた。博の声だ。


「お父さん……」


 男がゆっくりと立ち上がった。仰向けに倒れたままの博の腹に、深々とナイフが突き刺さっていた。

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