第42話 歌と酒
十七時になれば多くの店が開くだろうという博の見立ては、見事に外れた。新宿ゴールデン街で開いている店はほとんどなく、それでもここまで二軒の飲み屋を尋ねたが、マッカランは置いていないと言われた。
さっき入った店では、酒やけしているのか、声がしわがれている三十代とおぼしき若いママがいて、マッカランを置いているかと尋ねたら、ハスキーな声でママは言った。
「うちにはないけど、バーでもスナックでも、ゴールデン街の店ならマッカラン置いてるとこはたくさんあると思うよ」
たくさんあるといっても、店が開いていないのではどうしようもない。
確かに目につく店のすべてが酒を提供しているお店に見える。なので全店舗が開いていたとしたら、マッカランを扱うお店に当たる確率は相当高いのだろうとは思うが……。
「ここ、開いてるのかな? 明かりがついてる」
博が木造の建物の二階を指さしている。紫色の小汚い看板には『スナック おいで』と書かれていて、窓ガラスには『カラオケ1曲200円』と書かれた張り紙が貼ってある。
狭すぎる階段を上って二階へ行くと、ドア前に置いてある木製のボードに『
「十七時開店って書いてる。いってみよう」
博が今にも外れそうなドアを、ゆっくりと開ける。
中には誰もいなかった。
カウンター席のみの小さな店。壁には古びたポスターや黄ばんだ写真が飾られていた。
「ごめんください」
博が声をかけると、奥からくわえ煙草の女性が出てきた。五十代半ばくらいだろうか。おそらくママだろう。ディズニー映画の魔女みたいないじわるそうな顔をしている。
「いらっしゃい」
思っていた以上に低い声だった。
「こんにちは」
「座んなよ」
「いえ、あの、我々、ちょっと探し物をしてまして」
ママが口元をグニャリと歪めた。続けろと目で促される。
「我々UKCに出場してる者なんですけど、ご存知ですか? UKC」
「知ってるわよ。前はよく観てたわ。賭けたこともあったけど、一回も当たんなかった」
「そうですか。それで、我々に今出されているお題がマッカランなんです。もしこちらにあれば貸していただけないかと思いまして」
ママはゆっくりと煙を吐き出してから言った。
「12年ならあるよ」
「ありますか!? それ、貸していただけないでしょうか」
「お願いします」
くるみも頭を下げた。
「どういう関係?」
二人に交互に視線をやりながら、ママが聞く。
「親子です」
「親子であんなのに出てんの? 狂ってるわねえ」
「ええ、まあ」
「とりあえず、何か飲みなよ」
「はい?」
「お店に来といて一杯も飲まない人を助けてあげるほど、あたしはお人好しじゃないわよ」
第一印象の通り、いじわるな人なのかもしれない。
「では、いただきます」
「どうせならマッカラン飲みな」
そう言うと、棚に置いてあったマッカランのボトルを手に取り、二つのグラスに注いだ。
グラスには大きめの丸い氷がひとつだけ入っている。
「ロックでいい?」
ママは作り終わってからそう聞いた。はい、けっこうです、と博が言う。
博はグラスを手に取ると、ひと息に飲み干した。
「かぁぁぁぁ」
博が唸った。
「いい飲みっぷりじゃない」
くるみもグラスに口をつけた。
まずい。ウイスキーはキャバ嬢時代に一度だけ飲んだことがあり、その時は二度と飲みたくないと思ったものだが、今再び飲んでみて、やっぱり自分の口には合わないと思った。
「あの……水を、ください」
苦しげな表情の博がママにお願いする。
「お父さん、どうしたの?」
「下戸なんだよ……」
「え? 飲めないの?」
ママが水を入れたグラスを差し出す。博はさっきと同様、ひと息に飲み干した。
「ふぅ……ふぅ……」
博の顔がすでに真っ赤だった。
「飲めないのになんで一気に飲むのさ。ばかだねえ」
自分が飲ませておいて、何て言いぐさだろう。
もしかすると父親は、少しでも時間を無駄にしないために一気に飲み干したのかもしれない。
「飲めないんなら、こういう店も初めて?」
「いえ……スナックは、仕事の接待でよく行ってました」
「へえ。飲めないのに、大変だったでしょ」
「まあ……はい。大変でした」
父親がお酒を飲めないことは知っていたが、接待でスナックを利用していたというのは初耳だ。
マッカランというお題が出た時、昔ちょっと勉強したことがあったと言っていたのは、接待のために勉強したということだったのか。
「ちょっと……トイレをお借りしても……」
「奥よ」
博はふらふらとした足取りでトイレに向かう。
「あんたのお父さん、昔の男にちょっと似てるのよねえ」
言いながら大量の煙を吐き出す。
「そうなんですか?」
「若い女に走ってどっか行っちゃったけどね」
そう言った後、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。新しい煙草に火をつけ、無表情のまま深く吸い込む。
くるみがちびちびとグラスに口をつけていると、博が戻って来た。まだ顔は赤く、ダルそうな表情をしている。
「大丈夫?」
「……なんとか」
くるみは残りのマッカランを飲み干し、グラスを空にした。くるみもアルコールは強いほうではないが、一杯だけなら問題はない。
「あの、マッカラン、貸していただけますか?」
改めて聞いてみる。
「それはねえ、あなたたちの歌次第よ」
「歌?」
「そうよ。歌を聴いて、貸すか貸さないか判断するわ」
そう言うと、初めてニヤリと笑った気がした。
「二人で歌ってちょうだい。男女のデュエット曲を」
「判断というのは、点数ですか?」
「いいえ。あたしが聴いて、あたしが判断するの」
何よそれ。もしかして父親が自分を捨てた恋人に似ているからいじわるをしているのだろうか?
判断基準がわからないのは不安だが、とにかく歌うしかないようだ。
「お父さん、歌える?」
「ああ。歌えるよ」
まだ気分が悪そうに見えるが、頑張ってもらうしかない。
ドンッと目の前に分厚い本が置かれた。開くと曲名と歌手名が五十音順にズラリと並んでいる。昔のカラオケボックスで使われていたものだということはテレビで観て知ってはいるが、実物を見るのは初めてだ。
デュエット曲をまとめたページがあり、それを二人で確認しながら、
「『愛が生まれた日』は?」
くるみが聞く。
「ごめん、わかんない」
「『ロンリー・チャップリン』は?」
「知ってるけど、歌ったことないからなあ……」
「どの曲なら歌える?」
「そうだなあ……『銀座の恋の物語』とか『3年目の浮気』とか『男と女のラブゲーム』とか……」
「それなら全部知ってる」
「知ってるの!?」
「うん」
くるみは有名なデュエット曲はだいたい歌える。キャバ嬢時代にアフターで客とカラオケに行くことがよくあり、各世代のデュエット曲を一通り覚えたからだ。
「じゃあ、『居酒屋』は? 木の実ナナと五木ひろしの」
「知ってる」
「歌える?」
「うん」
「じゃあ、『居酒屋』でいいかな? 好きなんだよ、この歌」
「いいよ」
くるみは歌うことは好きだが、うまいというほどではない。父親はどうなのだろう。一緒に住んでいた頃は鼻歌も聞いたことがない。
くるみは緊張しながらも、博とともにマイクを手に取る。ステージのようなものはなく、カウンター席に座ったまま歌うスタイルだ。
両手でしっかりとマイクを握りしめている博の顔が、ギシギシにこわばっている。
イントロが流れる。大きく息を吸い込んでから、博が最初の男性パートを歌い始めた。
「もしもぉ きらいでぇ なかあったらぁ」
意外にも、低音で渋みのある声だった。緊張もしくはお酒のせいで手が微かに震えてはいるが、歌声自体は悪くはない。
次にくるみが女性パートを歌う。この曲は常連の年配客とカラオケに行った時に何度か歌ったことがあるので問題なく歌えるはずだが、緊張しているせいで出だしから軽く声が裏返ってしまった。
二人は交互に歌を紡いでいく。
ママは煙草をふかしながら、眉ひとつ動かさずに耳を傾けている。
くるみは博の横顔に視線をやった。表情は真剣そのものだった。歌の世界に入り込み、自分の感情を込めながら歌っているようにも見えた。
博が若い頃は、今とは違い無茶苦茶な言動がまかり通っていた時代だったと聞く。酔っぱらった接待相手に無理に飲まされることもあったかもしれない。くるみは仕事で飲むお酒を美味しいと感じたことはなかった。ましてや下戸であれば、地獄の苦しみだろう。
そうしたことに耐えられたのも、家族を養うため、家族の幸せのため、という思いが原動力の根底にあったからなのだろうか。
歌い終わると、静寂が店内を包んだ。
ふぅぅ。
ママの煙を吐く音だけが静かに響く。
ママは年代の違う二人が歌えるデュエット曲はないだろうと思っていたのかもしれない。二人が選曲で手こずる様を見て楽しみたかったのだとしたら、当てが外れて気分を害したという可能性もある。
「まあまあかな」
ママがぼそりと言った。その目元に涙が滲んでいるようにも見えるが、薄暗いのでよくわからない。
ママはマッカランのボトルを手に取り、カウンターの上に置いた。
「持ってきなよ」
「いいんですか?」と博。
「持ってけっつってんのに、なんでいいんですかなんて聞くのさ」
「すみません。では、お借りします」
「いいわよ。あげるわ」
「ありがとうございます」
博はボトルを両手でそっと持ち上げ、赤ちゃんを抱くようにかかえた。
その時、「こんばんわぁ」と声がした。
客が来たようだ。これ以上ここにいては邪魔になる。くるみはママに向かって頭を下げ、
「行くよ」
博を促し、店の外へ出た。
まだ博の顔色はすぐれない。
「落としたらまずいから、私が持つよ」
「ああ……そうだね」
博は素直に従い、ボトルをくるみに渡した。
階段を下りて表に出ると、店の前にはかなりの人通りがあった。今から飲んで騒げるからなのだろうか、どの顔も幸せそうに見えた。
「おわっ」
博の声とともにドドンッ、という大きな音が響いた。
くるみが振り返ると、博が尻餅をついていた。階段を踏み外したようだ。
「ちょっと、大丈夫?」
くるみが博の腕を取り、起き上がらせる。
「ごめんごめん。大丈夫大丈夫、だいじょうぶです」
コント番組で見る酔っ払いのような口調でそう言いながら、指でオッケーサインを作る。
「では行きますよぉ、リッキーの待つスタジオへぇ」
くるみは通行人にぶつかりそうになりながらふらふらと進んで行く博の背中を見つめながら、この先、博が酔いつぶれて使い物にならなくなったらどうしようと不安にかられ、泣きたいような気持ちになった。
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