第38話 ちーちゃん
○ 浅川みちる 2日目9時35分
浅草に向かうため、みちるは中央線の電車に乗り込んだ。
ドアに身体を預け、外の景色に視線をやろうとすると、車窓に映る自分の顔が目に入る。疲れ切っていて、酷い顔だ。
昨日は適当に選んだホテルに部屋を取り、ベッドに入ったのは早かったが、明け方まで寝付けなかった。田所仁志が連行されて一人になってしまったという事実は、みちるにとってあまりに大きな出来事だった。
一人になって以降、何もやる気が起こらず、これから何をどうしたらいいのかもわからなかったみちるは、さっさと近場のホテルに部屋を取り、トイレに行く時以外はベッドの上に座ったまま一歩も動かなかった。
テレビをつけ、UKCの放送を流してはいたが、何も頭に入ってこず、かろうじて午後九時発表の途中経過で自分が最下位であることだけは理解できた。
なんでUKCに参加するなんて言っちゃったんだろう……お金持ちになって特にやりたいことなんて、何もないくせに……。
明け方になってようやく眠りについたが、すぐに目を覚ました。全身が汗でびっしょりと濡れていた。シャワーを浴びて身体がすっきりすると、気持ちもだいぶ落ち着いてきた。
こうなった以上、一人で頑張るしかない。もし優勝できなくても殺されるわけじゃないんだし、開き直ってやってみるしかない。
そう思えた途端、不思議なことに勇気が湧いてきた。
与えられたお題は【
熊谷光生はメジャーリーグで三年連続ホームラン王に輝いた、現役の世界的大スターだが、みちるはお題を見た瞬間、思わず「やった。ラッキー」と呟いた。
浅草で伯母が営んでいるお好み焼き屋『ちさと』に、熊谷光生のサイン色紙が飾ってあるからだ。まだ熊谷光生が日本でプレーしていた頃、いきなり伯母の店に熊谷光生が現れるという大事件があった。舞い上がりながらも伯母はちゃっかりサインをねだり、快く書いてもらったのだという。
当時、そのサイン色紙の写真を添付したメールがみちるのスマホに送られてきたが、みちるは数日後に店を訪れた際に、実際にその色紙を見ている。
両親は折り合いが悪く、喧嘩が絶えなかった。子育てもないがしろ気味だったため、子供の頃のみちるは常に愛情に飢えていたが、唯一優しく接してくれたのが伯母の
高校を卒業するとすぐに家を飛び出し、伯母の家に転がり込むと、自分の部屋を借りて出ていくまでお店を手伝いながら共に暮らした。独身で子供のいなかった伯母は、みちるを我が子のようにかわいがってくれた。今のみちるがあるのも伯母のおかげと言ってもまったく大げさではない。
もしUKCで優勝できたら、賞金は何に使おうか?
悲しいかな、自分が欲しいものは何も思いつかない……。ちーちゃんに何かプレゼントしようか? それとも『ちさと』をリフォームする? ちーちゃんと一緒に旅行に行くのもいいな。豪華客船って言ったっけ? あれに乗って世界一周とかいいかもしんない。あ、そんなに長い間お店を休めないから無理かな……。
『ちさと』の暖簾をくぐると、伯母は笑顔で抱きついてきた。久しぶりの再会を喜び合った後、、伯母に事情を説明すると、壁にかけてあった熊谷光生のサイン色紙を快く貸してくれた。
お礼を言って店を出ようとした時、お腹が鳴った。そういえば朝食を食べていなかった。みちるは看板メニューのちさとミックスを注文した。テレビにも取り上げられたことがあるちさとミックスは何度食べても飽きることのない絶品のお好み焼きだ。想像しただけで顔がニヤけてしまう。
「はい、おまち」
ちさとミックスがテーブルに置かれた。マヨネーズをたっぷりとかけ、大きなひと切れを口に放り込んだ。うますぎる。
視線をふと上げると、目の前にDBが浮いていた。食べているところを正面から撮るためのポジショニングなのだろうか。
今テレビをつけたら自分の食事シーンが流れているのかな? 想像できないくらい多くの人が観ているんだろうけど、そんなことはどうでもいい。
みちるは上唇についたマヨネーズをぺろりとなめてから、大口を開けて次のひと切れにかじりついた。
*
そっくりさんタレントのリトル熊谷が、劇場の楽屋でテレビを観ている。映っているのは幸せそうな顔でお好み焼きを食べている女の子。UKCにあまり興味はないが、ほかの芸人たちがその中継を観て盛り上がっているので自分も何気なく観ていたのだが、【熊谷光生選手のサイン】というお題にチャレンジ中という女性が映し出され、思わず身を乗り出してしまった。
しかも、その女性が向かった先が、浅草にある『ちさと』というお好み焼き屋だった。あのお店のことは覚えている。浅草で美味しいと評判になっているとお店だと芸人仲間に教えてもらい、浅草の演芸ホールでの出番が終わった後、ふらっと立ち寄ってみたのだった。
おかみさんに本人と勘違いされ、あまりに喜んでいたのでそっくりさんだと切り出すタイミングを逃してしまい、頼まれるままサインを書いてしまった。
借りたものが間違っていた場合、どうなるんだっけ? UKCはまともに観たことがないからルールがよくわからない。あの女性は自分のサインのせいでとんでもないことになってしまうのか? そうだとしたら寝覚めが悪い。
「リトルさん。もう出番ですよ」
楽屋に入ってきた後輩に声をかけられた。
もう一度テレビに視線をやる。まあ、自分には関係ないか。
でも、とりあえずごめんなさい。と心の中で呟いてから、リトルは慌てて楽屋を飛び出していった。
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