第35話 激走
○ 金崎タイチ 2日目10時
「なああんた、柴犬飼ってねえか」
タイチはサラリーマン風の男に声をかけたが、男は立ち止まりもせずそのまま行ってしまった。
「なんだよボケが」
煙草を取り出し、火をつけた。思いきり吸い込み、勢いよく吐き出す。Tシャツの胸元に大きな汗ジミができていて気持ち悪い。
タイチが探しているのは、【オスの柴犬】だった。
昨日の途中経過の時点で一位のペアは獲得賞金額が一億円を超えていた。そこに勝つためには今日の朝イチから勝負をかける必要があり、タイチはグリーンカードを選んだ。そのお題が【オスの柴犬】だったのだ。
新宿で野良の柴犬を探すのは現実的ではないと判断し、道行く連中に声をかけまくってみたが、まともに話を聞く者はほとんどおらず、たまに答えてくれたとしても、誰も柴犬は飼っていなかった。
こんな時にたくみが横にいたら、汚い言葉を思いっきり吐き出してやるところだ。話を聞くことすらしない連中やクソみたいなお題を出しやがったUKCに対する不満を吐き出し、たくみがそれを横で、しょうがねえなあというような表情で聞いている。ただそれだけでいい。
今まで当たり前にあったその日常がどれだけ大事なことだったのか、今になって実感する。
たくみが連行されて一人になってから、タイチは心に大きな穴があいたような感覚を味わっている。柴犬を求めて街を歩き回っている間も、かつて一緒に不良相手に喧嘩をしたり、カラオケボックスで朝まで歌いまくったりした記憶が蘇り、寂しさを募らせる。アホでどうしようもない奴だったが、いなくなって初めてその存在の大きさに気づかされた。
タイチは歌舞伎町を行き交う人々を睨みつける。
このへんの連中は何がそんなし忙しいのか、誰もが急いでいるようで、まともに話をしようともしない。タイチはもう少し人通りの少ない落ち着いた場所に行ってみようと思った。
移動している途中で、ペットショップを見つけた。自分のようなガラの悪い若者にいきなり頼まれて大事な商品を貸してくれるとは思えないが、ダメもとでいってみるか。
店内に入ると、エプロンをつけた若い男がダルそうな声でいらっしゃいませと言った。店長は誰だと尋ねると、奥にいた中年の男がそうだと言う。タイチはその男に声をかけた。
「おっさん、ちょっと聞きたいんだけど」
「はい」
「この店に柴犬っている?」
「ええ。いますよ」
「オスも?」
「いますよ」
おっさんが目を輝かせながらタイチを案内する。
「こちらです」
ショーケースの中に小さな柴犬がいた。
「私も飼ってたことあるんですけど、柴犬かわいいですよねえ。先週まで珍しい胡麻色の柴もいたんですけど、」
「あのさあ」
おっさんの無駄話をぶった切るようにタイチは切り出した。
自分がUKCの出場者であり、お題として出されたオスの柴犬を探していることを伝えた。
「貸してほしいってことですか? いや、それはちょっと……申し訳ないですけど、できません」
予想通りの答えではあるが、断られるとやはりムカつく。
「いいじゃねえかよ、減るもんじゃねえんだから」
「いや、ほんとに、ごめんなさい」
さっきまで輝いていたおっさんの目が淀んでいる。柴犬好きの同士かと思いきやただの迷惑者だったことがよほどショックだったのだろう。
「犬を借りたいということなら、専用のレンタルサービスを利用したらどうですか」
「なんだよそれ」
「ペットのレンタルサービスをやっているお店です」
「そんなのあんのか?」
「このへんだと『ワンlove』さんがありますね。ペットレンタルとペットホテルをやっているお店です」
「どこにあんだよそれ」
店長から店の場所を教えてもらい、ろくに礼も言わずに表へ飛び出した。タイチは走ってその店を目指した。額から噴き出した汗が目に入って視界がかすむ。バイクを持ってくればよかったと激しく後悔した。
その時、視線の先に大きな犬のオブジェがくっ付いているトリッキーな看板を見つけた。間違いない、あの店だ。信号を無視して横断歩道を突っ切り、勢いそのまま店の中に入っていく。さっきのペットショップの時と同じように店員を掴まえて店長はどこだと尋ねてみる。店員は引きつったような笑顔を浮かべながら少々お待ちくださいと言って店の奥へ引っ込むと、すぐに一人の女を連れて戻ってきた。
「どうも」
「あんた店長?」
「はい。そうです」
三十歳くらいの若い女店長が笑顔で答える。
「ペットレンタルやってんだよな? 柴犬を貸してほしいんだよ、柴犬を」
「柴犬ですか。申し訳ありません。うちはチワワとトイプードルとダックスフントのみで、柴犬はいないんです」
「は? 柴犬がいないだと? ふざけんじゃねえぞおい」
「すみません」
「なんとかしてくれよ、なあ」
「そう言われましても……いないものはどうしようもないので」
「ああくそっ」
タイチは頭をかきむしった。
「ここから近いとこで、ほかにレンタルできる店教えてくれよ」
店長は嫌な顔もせず、メモ用紙に簡単な地図まで描き、タイチに手渡した。
「店長さんよ、柴犬ぐらい置いといたほうがいいぜ」
礼の代わりにそう言って、タイチは店を出て行った。
メモ用紙を握りしめ、店長に教えてもらった店に向かって走り出したタイチだったが、すぐに立ち止まった。暑い。暑すぎる。毎分ごとに気温が上昇しているんじゃねえのか?
目的の店に着いた時には、下着までぐっしょりと濡れていて、あまりの不快感に叫びだしそうになった。
苛立ちを何とかこらえながら店に入るが、タイチはわずか三分後、「柴犬ぐらい置いとけよボケが」と怒鳴り散らしながら店を出てきた。
そうして何店舗か同じことを繰り返したが、どの店にも柴犬はおらず、気がついたら新大久保まで来ていた。そこでタイチの足が完全に止まった。ヘビースモーカーなうえに、日頃の偏った食生活と運動不足がたたり、激しい息切れを起こしていた。
「くそ。なんで犬の一匹も見つけられねえんだよ」
タイチは今回のお題を簡単にクリアできると思っていた。それだけにショックは大きかった。KARIMOで確認すると、残り時間は一時間半ほどしかなかった。二千万円払えば一時間買うことができるが、今二千万円を使うと獲得賞金がゼロになってしまう。
ボケが、こんなところで振り出しに戻ってたまるかよ。
とりあえず体力を回復させようと、民家の壁に背中を預け、そのままズルズルとへたり込んだ。煙草をくわえて火をつける。深々と吸い込み、大量の煙を吐き出した。
何気なく視線を横にやると、見るからにホームレスといった風情の男が歩いていた。タイチは目を見張った。男が茶色い毛並みの犬を連れていたからだ。
あれは……タイチは思わず煙草を投げ捨てて立ち上がった。
「おっさん、その犬、柴犬だよな」
何の前置きもなく、いきなりそう聞いた。
白い髭をたくわえた年齢不詳の男はタイチに顔を向け、目をしばたたかせた。
「ゲンゴロウかい? そうだよ」
ビンゴだ。
「貸してくれ」
「ん?」
「その犬、俺に貸してくれって言ってんだよ」
男はキョトンとした顔をして、首をゆっくりとひねった。
「あ~、でも、このコの子供が待ってるからねえ。早く帰っておっぱいあげないといけないし」
「おっぱい? ゲンゴロウの?」
「そうだよ」
「待て、ゲンゴロウってメスなのか?」
「そういうことになるね」
タイチは犬を抱き上げて股間を確認した。あるはずのものが確かになかった。
「くそっ、なんでメスなのにゲンゴロウなんだよ!」
「野良犬だったこいつを見つけた時にね、直感でゲンゴロウって名付けたんだよ。オスかメスかなんてどうでもいいからね。そしたらある日、子供を産んだからさ、ああメスだったんだなって」
「子供のほうはオスか?」
「さあ、わからないね」
「なんで確認してねえんだよ。そいつに会わせてくれ」
「ああ、いいけど」
おっさんについて行くと、住宅街の中にあるベンチだけの小さな公園に案内された。木とフェンスの間に、人目から隠すように段ボール箱が置かれていて、そこに小さな柴犬がいた。
「このコだよ」
タイチはしゃがみ込み、子犬を抱き上げた。頼むからついててくれよ。祈るよな気持ちで下半身を覗き込み、その有無を確認する。
「おっし、男だ」
思わず声が出た。
「でかしたぞチビスケ。おっさん、こいつ借りてっていいか?」
「でもねえ、おっぱいあげないと。お腹空いてるから」
「腹が減ってるかどうかなんて、なんでおっさんにわかるんだよ」
「そらわかるよ」
おっさんはにやりと笑い、自慢気に言う。
タイチはこのまま走り去りたい衝動に駆られたが、無理やり奪うようなことをしてはルール違反となってしまう。
「なら早くしてくれ」
タイチは子犬がゲンゴロウのおっぱいを飲んでいる間、煙草を吸いながら待った。
「俺にも一本くれない?」
おっさんが手を出してくる。
タイチは何も言わずに一本くれてやり、火をつけてやる。
「うまいねえ。久しぶりだわ」
おっさんは恍惚とした表情を浮かべ、煙を吐き出す。
「おっさん、ここに住んでんのか?」
「いや、今はどこも公園なんかには住めないよ。俺はもっと遠くの、とっておきの場所に家作ってるんだ」
「そうか。大変そうだな」
おっさんみたいになったら終わりだ。金を持たないと、自分もおっさんと同じようになってしまうかもしれない。そう考えた瞬間、背中に寒気を感じた。
タイチは柴犬の親子に視線をやる。
「もういいんじゃねえか」
「いやあ、もうちょっとかな」
「これやるからよ。いいだろ」
タイチは煙草を箱ごと差し出した。
おっさんはそれを手に取り、じっと見つめる。
「まあ、いっか。早めに返してよ」
タイチはおっぱいを飲んでいる子犬を両手でそっと引き離した。
「悪いな。すぐに戻してやるからよ」
そう子犬に声をかけ、片手で抱き抱えたまま走り出した。
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