第28話 訪問

「まさか借りられないなんてね」


 博がそう言いながら、ぽりぽりと頭をかいた。

 図書館で借りられるものがブラウンではなくレッドだなんてラッキーだ、と思ったのはやはり間違いだっだ。そんなに簡単に借りられるものではないからこそ、レッドカードのお題として出されたのだ。


「どうしようか……」


 博が力なく呟く。

 練馬区の図書館で借りるという道は閉ざされた。

 もし国立国会図書館では貸出し可能だったとしても、閉館時間は午後七時なのでもう間に合わない。


「一般家庭を訪ね歩いても、望みは薄いよね」


 くるみは地面に視線を落とし、小さな声で呟いた。


「まあ、六法全書なんて普通は持ってないよね。たまたまそこが弁護士の家とかじゃないかぎり」


 博のその言葉にハッとして、くるみは顔を上げた。


「それだ」

「ん?」

「弁護士事務所」


 そう言うとくるみは駆け出した。慌てて博が後を追う。

 通りがかったタクシーを止め、二人は乗り込んだ。


「すみません、どこでもいいんで、弁護士事務所に行ってください」

「弁護士事務所? どこでもいいの?」


 六十代くらいのおじさん運転手が聞き返す。


「どこでもいいです。できるだけ近いところで」

「はいはい」


 五分ほど走ると、タクシーが止まった。


「ここでいいかな。三階が弁護士事務所だから」


 おじさんが手で示した先には、小さなビルがあった。

 ここで待っててください、と言って二人はタクシーを飛び出した。エレベーターで三階まで行く。降りてすぐ【迫田法律事務所】のプレートが付いているドアが目に入った。

 インターホンを押してみるが応答がない。何度も押してみるが、結果は同じだった。


「営業時間が終わってるのかな」

「なんでよ、もう」


 くるみがイラ立った声を出す。

 二人はタクシーへ戻り、


「ごめんなさい。別の事務所に行ってください」

「ほかのとこ? はいはい。駅前にあるから、そこ行くね」


 運転手が次に連れていってくれたのは、石神井公園駅の前に佇む古びたマンションだった。

 集合ポストで事務所の部屋番号を確かめ、エレベーターに乗り込んだ。

 四階で降り、ドアに【はま弁護士事務所】と書かれてあることを確かめ、インターホンを押す。


「はい」


 女性の声で応答があった。


「あの、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど」

「ご予約はされていますでしょうか」

「してません。法律相談ではないんです。あの、六法全書を貸してもらいたいんです」

「はい?」

「UKCってわかりますか? 借り物競争のやつ」

「ああ、はい」

「それの参加者なんですけど、今与えられているお題が六法全書なんです。だから、お持ちでしたら貸していただきたいんです」


 くるみは早口でまくし立てた。


「少々お待ちください」


 てっきりドアを開けてもらえるものだと思ったが、少しして「もしもし」と年配の男性の声が聞こえてきた。


「事情はスタッフから聞きました。でもね、ああいうゲームに協力するのはちょっと気が進まないんですよ。だから、申し訳ないです」


 事務所の代表者だろうか。その声に嫌悪感がこもっているのがはっきりとわかる。


「そこをなんとか、お願いできませんでしょうか」


 博が言う。


「六法全書を貸すだけなので、こちらの信用に傷がつくようなことにはならないと思います」

「お引き取りください。忙しいので、失礼します」


 くるみが待ってください、と言いかけたその時、


「ちょっと失礼」


 と言って誰かがぐいっと割り込んできた。肩幅の広い、小太りのおばさんだった。


「あなた、私よ。開けてちょうだい」

「ん? 由美子?」

「早く」


 おばさんが言うと、すぐにドアが開けられた。


「どうぞ」


 おばさんの後に続いて、くるみと博は部屋の中へと足を踏み入れた。奥の部屋にはスタッフらしき女性二人と、目を丸くして突っ立っているお腹の突き出たおじさんがいた。


「お前、どうしたんだ、急に」

「どうしたじゃないわよ。貸してあげなさいよ、六法全書くらい。減るもんじゃないんだから」


 なぜおばさんは私が六法全書を借りに来たことを知っているのだろう。さっきの会話を聞かれていたのか?


「いや、しかしね、あんなゲームに協力するってのは、どうかと思うんだよなあ……」

「あんなゲームとは何よ。いいから貸してあげないさよ。そんなことでうちの評判が落ちるなんてことはないから」

「……う~ん」


 おばさんの旦那であり事務所の代表者であろうおじさんは、顎に手を当てて唸った。よほど貸したくないのだろう。


「いいから貸してあげなさいっ」


 おばさんが大きな声を出すと同時に、近くのデスクをバンッと叩いた。


 驚いたおじさんはヒッと声を上げると、はいはい、わかりましたよ、と言って部屋の隅にある棚のほうへ歩いていった。


「最新版のやつよ」


 おばさんが付け加えた。

 なぜおばさんは最新版が必要だということまで知っているのだろうか。まだそれは言っていないのに。

 おじさんは棚から六法全書を抜き出し、無言でくるみに手渡した。


「ありがとうございます」


 くるみは頭を下げながら受け取った。

 おじさんは苦いドリンクを飲んだ直後のような顔をして、ふんと鼻を鳴らした。


「私、UKCのファンなのよ」


 おばさんが言った。


「ここの上に住んでるんだけどね、今UKCの中継観てたらうちの事務所にあなたたちが来たから驚いたわ。それでドキドキして観てたら、この人があなたたちのお願いを断ったから、慌てて飛んで来たのよ」

「そうだったんですか」


 だからいろいろと知っていたのか、とくるみは納得した。

 

「あなたたち親子のことは応援してたのよ。お父さんなんて六十代でUKCに参加してるんだから、それだけですごいと思うわ」

「あ、ありがとうございます」


 博が照れ笑いのような表情を浮かべる。


「あと夫婦ペアも最高だけどね。無茶苦茶な言動の奥さんがたまんないわ」


 くるみの頭にすぐにその女の顔が浮かんだ。今朝、新宿マルタに集合した時から目立ちまくっていた女の顔が……。


「応援してるから、頑張りなさいね」

「ありがとうございます」


 旦那さんが大きなため息をついて、デスクの椅子にどすん、と腰を下ろした。

 あれほど嫌がっていたにもかかわらず、奥さんの一喝で六法全書を貸すことを了承したのを見ると、よほど奥さんが怖いのだろう。何か弱みでも握られているのかもしれない。

 くるみが旦那さんを気の毒そうな目で見ていると、おばさんが耳元に口を寄せてきて、


「あの人、みそぎ期間中なの」


 そう言って、ふふふ、と笑った。

 何かをやらかしたということか? 浮気? それで奥さんに頭が上がらないということなのか。


「くるみ、行こうか」


 博が促す。


「うん」


 くるみはその場にいる全員にはっきりと聞こえる声で、


「では、お借りします」


 二人は改めて頭を下げた。

 玄関で靴を履いていると、後ろからおばさんが旦那さんに小言を言う声が聞こえてきた。

 くるみは振り返ってもう一度軽く頭を下げたあと、勢いよくドアを開けて廊下へ飛び出した。

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