第19話 ゲスとキス

「あの人、かなりうまいね」


 博が指さした先には、リズムよく快音を響かせている一人の男がいた。汗で濡れたシャツが筋肉質な身体に張りついている。外回りの営業マンが仕事の合間に息抜きをしているといった風情だが、素人目から見てもその打撃は本格的だった。


「声かけてみようか」

「ちょっと怖そうだけど」

「大丈夫。野球人に悪い人はいないよ」


 打撃を終えた男がケージから出てきたタイミングで博が声をかけた。


「あの、すみません」

「……はい?」

「今ですね、球速百四十キロ以上出せる方を探してまして。あなたかなりの腕前とお見受けしましたが、ボールを投げて百四十キロ以上出せたりしますかね?」

「は? おじさん何言ってんのよ」

「えーっと、ごめんなさい。説明がまずかったですね。あの、私たちですね、あ、こちら私の娘なんですが……」

「だから何が言いたいんだよ」

「いやその、つまり私たちは、UKCの出場者なんです」

「UKC? ああ、あれか。興味ねえよ」


 男は冷めた声で言った。心底鬱陶しそうな顔をしている。


「ええ、気持ちはわかりますが、ちょっとだけ話を聞いてもらえませんか」


 博は食い下がるが、男の表情はさらに険しくなる。


「うるせえよ。ちょっと休憩したらまた打つんだよ。だから邪魔すんじゃねえよ」

「いや、ですが……」

「うるせえっつってるだろうが! 二度と話かけてくんな!」


 男の怒鳴り声に、周りの人々が振り返る。博は恥ずかしさと悔しさで顔が真っ赤になっている。

 くるみも怒りと悔しさのあまり、唇を強く噛む。野球人に悪い人はいないのではなかったのか。性格のひん曲がったクソ野郎じゃないの。


「あんたね、話ぐらい聞いてくれたっていいでしょ。減るもんじゃないんだから」


 男を睨みつけながら、くるみは言葉を投げつけた。


「あ? なんだよお前」

「ダサいよ、あんたみたいな男が一番ダサい」

「ダサい? ふざけんなよおい、何様なんだよお前は!」

「ダサいからダサいって言ってんのよ。モテないでしょ、あんた」

「んだと」


 男の目つきが変わった。拳を握りしめ、くるみに近づいて来る。


「くるみ、もういいよ。行こう」


 博が慌ててくるみの腕を取り、「どうもすみません」と男に頭を下げた。

 博に促され、くるみは近くのベンチに腰を下ろした。


「ごめんね。父さんの説明が下手すぎたせいで……」

「あの人の性格に問題があっただけだよ。まあ、確かに説明は下手だったけど」


 博は申し訳なさそうに頭をかき、「飲み物買ってくる」と言ってその場を離れた。

 くるみは気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。何度か繰り返していると頭が冷静になっていった。

 ふと視線をやると、さっきの男の姿はもうそこにはなかった。怒りがおさまるにつれ、悪いことをしたかもしれないという気持ちが湧いてくる。

 博が戻って来て、くるみにミネラルウォーターを渡す。冷たい水で喉を潤しながら、改めて各ケージを見回してみる。懸命にバットを振っている身体の大きな外国人がいた。パワーはありそうだが、明らかに素人だ。


「以外にいないもんだね」


 そう言ってから博は缶コーヒーを一気に飲み干し、小さくゲップをする。

 とその時、


「あれ? 水樹ちゃん?」


 と声が聞こえた。


「水樹ちゃんじゃない?」


 くるみが顔を向けると、一人の男がこちらを見ている。


「やっぱりそうだ。水樹ちゃん、久しぶり」


 久しぶり? どこかで会ったことがあるのか? 思い出せない。水樹というのはキャバ嬢時代の源氏名だ。ということは、当時のお客さんだろうか。


「水樹ちゃんでしょ?」

「あ、はい」

腹沼はらぬまだよ。腹沼。いっとき水樹ちゃん目当てで通い詰めてた腹沼」

「……あっ、腹沼さん」


 その珍しい名前を聞いて、一瞬で思い出した。キャバ嬢の仕事を始めたばかりの頃、大した接客もできず面白味のないくるみをなぜか気に入り、毎回指名しては高いお酒を入れてくれていた客だ。ずいぶんと羽振りが良さそうだった腹沼は、業界でいうところの太客ではあったが、下ネタ満載でしつこくくるみを口説いてくるため、内心では辟易していた。

 そして、この腹沼こそ、アフターでくるみをバッティングセンターに連れて行った張本人だった。


「仕事が忙しくなって通えなくなってそれっきりだったけど、まさかこんなとこで会えるとは、嬉しいなあ」

「そう…ですね」


 そこで腹沼は博に視線を移した。


「あ、同伴中だった?」

「いえ、違います。もうお店は辞めたんで」

「そうなんだ。俺、お好み焼き屋のオーナーやってんだけど、この近くに新店舗をオープンしてさ、そこの様子を見に来たついでに昔よく通ってたこのバッティングセンターにふらっと寄ってみたのよ」


 聞いてもいないのによく喋る男だ。早くどこかに行ってほしい。


「そう言えば一緒にここ来たことあったよね? あの時はベロベロだったからぜんぜんダメだったんだよなあ。シラフだったら凄いんだよ。ほんとだよ、なんせ元甲子園球児なんだから」


「甲子園球児?」


 くるみより先に声を出したのは博だった。


「今、甲子園って言いました?」

「うん。言ったよ」

「出たんですか?」

「二年連続、夏の甲子園に出たよ。千葉県代表でね。三年の時はベスト8までいった」

「ベ、ベスト8……あの、ポジションは?」

「エースで5番」


 腹沼が五本の指を広げてニヤリと笑う。


「エースということは、ピッチャーってことですよね?」

「もちろん」

「甲子園ベスト8の、エースピッチャー……」


 興奮のためか、博の声が震えている。


「どうしたのおじさん、目が怖いよ。ていうか、誰?」


 腹沼が博を指さす。


「父です」

「ちち? あ、お父さん? そうでしたか、そりゃどうも」


 おどけた調子で言って、後頭部をぺちっと叩いた。


「腹沼さん、野球やってたんですか?」

「言ってなかったっけ? 言ったと思うけどなあ。俺その自慢話あちこちで言いまくってるから」


 記憶にない。腹沼に良い印象を持っていなかったので、適当に受け流していたのだろう。


「球速は、どのくらい出してましたか」


 博が前のめりになって尋ねる。


「球速はねえ、マックスで百五十三キロだったかな」

「百五十三! それは凄い」


 博が声を上げる。


「てか、さっきから何をそんなに興奮してんの?」


 不思議がる腹沼に、くるみは自分たちがUKCに出場していること、球速百四十キロ以上出せる人物を探していることを端的に説明した。


「マジか。水樹ちゃんがUKCに出てたなんて知らなかった。忙しくてほとんどテレビ観る暇なかったからなあ」

「腹沼さん、今でも百四十キロ以上出せます?」

「うーん、どうだろう。野球はやってないけど、身体は鍛えてるから、いけなくはないと思うけど……やってみないとわかんない」


 くるみは博に顔を向ける。博は大きく頷いた。


「腹沼さん、お願いがあります」

「ん? なに? もしかして」

「一緒にスタジオに行って、投げてもらえませんか?」

「やっぱり。そうきたか」


 腹沼は斜め上に視線をやってしばらく考え込み、やがて口を開いた。


「うん、いいよ」

「本当ですか」

「ただし、条件がある」

「条件?」


 腹沼の目の奥が光ったような気がした。嫌な予感。


「水樹ちゃんがキスしてくれたら、やってもいいよ」

「キス?」


 博が驚きの声を上げる。


「俺も忙しいとこ時間を割くわけだから、なんのメリットもないってのはねえ」


 ねっとりとりとしたいやらしい視線をくるみに向けてくる。お店でしつこく口説いていた時も確かこんな目つきをしていた。気持ち悪い。


「いや、君ね、それはいくらなんでも」


 博が割って入る。


「イヤならべつにいいよ。俺はバッティングして帰るだけだから。そんじゃ」


 腹沼は片手を上げてそう言うと、背を向けて歩きだした。


「待って」


 くるみが呼び止める。


「いいですよ。やります」


 その言葉に腹沼が素早く振り返る。


「え? ほんとに?」

「ちょ、何言ってるんだ」


 くるみの意外な言葉に博が驚く。


「しょうがないよ。腹沼さんを逃したら、時間内に条件に合う人を見つけられるかわからないじゃない」

「それは……そうだけど」


 博が不安そうな顔でくるみを見つめる。ゴミみたいな男に言われるがままそんなことをやらせてしまってもいいのかという葛藤と戸惑いが表情に滲み出ている。


「駐車場に車とめてるから、その中でいいかな?」


 ニヤつきながら言う。興奮のあまり鼻の穴が膨らんでいる。


 くるみが無言で腹沼に近づいていく。


「ん?」


 腹沼が怪訝そうな顔でくるみを見つめる。

 くるみは腹沼の正面に立つと、背伸びをして自分の唇を腹沼の分厚い唇に重ねた。

 それは一瞬の出来事だったが、唇に残る腹沼の温もりとほのかに漂うチーズのような臭いが、吐き気を催すほどの嫌悪感を呼び起こした。

 突然のキスに、腹沼はぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている。


「行きましょう、腹沼さん」


 呆然としていた腹沼は、「え……ああ……」という微かな声を発し、緩みきった表情のままくるみの後をついて行く。

 博もまた呆然と立ち尽くしていたが、振り返ったくるみが「行くよ」と声をかけると、はっとした顔をして、そろりと足を踏み出した。心の中に湧き上がる複雑な感情に揺れ動いているのか、地雷原を行くようなぎこちない足取りで、くるみの背中をゆっくりと追いかけた。

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