第11話 大輔の苦悩

○ 片山大輔・片山緑 初日12時


「ところで緑ちゃん、今どこに向かってるの?」


 緑に言われるまま京王線の電車に乗り込み、黙って揺られていた大輔が、気になって尋ねた。


「たぬきの置物を借りに行ってるに決まってるじゃない」


 素っ気ない口調で返す。


「骨董品屋とか?」


 緑が大輔に冷めた視線をやる。


「……そういうとこなら置いてそうだなあ、と」

「は? 買うのはルール違反なのよ」

「いや、だから、貸してもらえないか交渉を……」

「商売人がメリットもなく貸すわけがないでしょ。そんな相手に強引に貸してくれって粘るなんて、バカがやることよ」


 緑ならやりかねない、と大輔は思ったが、口には出さない。


 大輔と緑は同じ会社で働いていた。大輔は正社員で緑は事務のパートだった。会社の飲み会で隣同士になったのをきっかけに親しくなり、二人で飲みに行くようになった。自分とは正反対の、竹を割ったような緑の性格が魅力的だと思った。大輔が三十一、緑が三十二歳の時に結婚した。


 結婚後、大輔は会社の同僚と飲んだり、趣味の漫画に没頭したりと、地味ながら人生に楽しみがあったが、緑には友達もおらず趣味もなかった。大輔がどこかに行こうと誘っても、面倒だの腰が痛いだのと言って誘いに乗ることはなかった。


 事務仕事とテレビを観るだけの毎日を送る緑は「人生に潤いがない」と嘆くようになった。そんな緑とのダラダラとした結婚生活が二十年近く続いたある日、突如緑がギャンブルにハマった。SNSで知り合った一回り年下のギャンブル女子に誘われるまま、五十歳を超えて競馬やボートレースにのめり込んだのだった。

 その結果、目がくらむような大借金が出来上がってしまった。


 そこから大輔の「地味でささやかな人生」が「みじめな人生」に一転した。会社の近くに借りていたマンションから、郊外の安アパートに引越したことで都心から遠ざかり、通勤時間も倍以上になった。外食も禁止となり、友人と飲みに行くことさえもできなくなった。自宅での食事は値引きの総菜ばかりとなり、会社には自分で作ったみすぼらしい弁当を持っていかされることにもなった。


 二人の間に子供はいない。大輔は子供が欲しかったが、緑は子供が大嫌いだったからだ。付き合っていた頃は「子供がいたら賑やかで楽しいかもね」なんて言っていたから、緑も子供がほしいものだと思っていたのに、結婚後に子供嫌いだと聞かされてショックを受けた。


 子供を二人か三人授かって、ごくごく普通の家庭を築くこと。それが大輔の夢だった。特別な取り柄や才能のない自分でも「一般的な家庭」くらいは持てるものだと思っていた。

 それがなぜ、子供もなく、家も持てず、多額の借金を背負って狂気のカリモノレースに出場する羽目になったのか……。



 電車が停車し、ドアが開くと同時に緑が立ち上がった。大輔は慌てて緑の後を追う。降りたのは八幡山という駅だった。このあたりに来たことはないが、おそらく杉並区あたりだろう。

 駅から五分ほど歩いて緑が立ち止まったのは、一軒の年季の入ったそば屋の前だった。『そば処 さぶ』と書かれた暖簾がかかっている。

 店の前には大きなたぬきの置物があった。


「いたいた。こいつだよこいつ。なんともまぬけなツラだねえ」


 緑はたぬきの額をぺちぺちと叩いた。

 ガラガラと店の戸を開ける。昼時なのに客が少ない。


「ん? おお、緑ちゃん」


 店の奥から出てきた店主が声を上げる。白髪交じりの角刈りが特徴的だ。


「三郎ちゃん、久しぶり」

「五年ぶりくらい? どうしたの急に」


 突然現れた緑に目を丸くしていた店主の顔が、嬉しそうな表情に変化する。

 三郎のその反応に大輔は驚いた。緑に対して笑顔を向けている人を初めて見たからだ。


「うん。ちょっとお願いがあってね」

「お願い? 俺に」

「そう。三郎ちゃんに」

「いいよ。俺にできることならなんでも」


 大輔は再び驚く。お願いの内容も聞かずに承諾するなんて……。


「お店の前にたぬきの置物があるじゃない? あれをさ、貸してほしいのよ」

「たぬき? ああ、あれ。べつにいいけど、あんなのどうするの」


 店主が不思議そうな顔をする。UKCの中継は観ていないようだ。


「詳しく説明してる時間はないのよ。前にここに食べに来た時にたぬきの置物を見たのを思い出してさ。まあ、とにかく貸してちょうだいよ」

「おう。ぜんぜんいいけど」


 そこで三郎の視線が大輔に移る。


「これ、うちのダンナ」

「えっ、緑ちゃんの? それはそれは」

「どうも」


 大輔は頭を下げる。


「緑ちゃんは、私の命の恩人なんですよ」

「命の恩人?」

「当時、緑ちゃんと私は行きつけの居酒屋が同じで、そこで知り合ったんですけどね、私のいた会社がいわゆるブラック企業で、働きすぎて身も心もボロボロになっちゃってたんです。自殺を考えるくらい追い詰められてたんですけど、緑ちゃんに一喝されましてね。死ぬくらいなら逃げろって。それからしばらくして会社を辞めて、昔から夢だった蕎麦屋を始めたんです。あの時死ななかったからこそ、今こうして楽しくやれています。それもこれも緑ちゃんのおかげですよ」


 店主は照れくさそうな表情で、はははと笑った。

 緑が人の命を救ったという事実に大輔は衝撃を受けた。緑はおそらくただ単にウジウジしている店主にイラついて思ったことをストレートに言っただけなのだろうが……。


「そんな昔話はどうでもいいのよ。とにかく借りてくから」


 そう言って緑がくるりと背を向け、外へ出ようとした時、


「あの、UKCの出場者の方ですよね」


 カウンター席で食べていた若いサラリーマン風の男性客が声をかけてきた。


「オープニングだけテレビでちょこっと観たんですけど、面白い人だなあって思って。頑張ってください。応援してます」


 男性客は爽やかな笑顔で言った。


「あんたに応援してもらっても、屁のつっぱりにもなりゃしないわよ」


 何てことを言うんだ。せっかく好意的な言葉をかけてくれたのに。

 しかし男性はショックを受けたというより、期待通りの反応を喜んでいるような表情をしている。


「すみません。ありがとうございます」


 大輔は男性客にそう言って、緑の後を追って表に出る。


 店の前にでんと座っているたぬきの置物は、頭に編み笠を被り、手には徳利、大きな目は少し上目遣いで何とも愛らしい表情をしている。


「これって、百三十センチ以上あるかな?」

「大丈夫よ。百五十五センチのあたしよりちょいと低いだけだから、百三十センチ以上は絶対にあるわ」

「念のために計ったほうがいいんじゃないかな」

「どっかからメジャーでも借りてくるっていうの? そんな面倒なことイヤよ。あたしが大丈夫って言ってるんだから大丈夫よ」


 緑がイラ立った声を出す。


「わかった……」


 二人が選んだグリーンカードのお題は【信楽焼のたぬきの置物(高さ130㎝以上)】。

 確かに目の前のたぬきは百三十センチ以上はありそうだが、間違っていたら一発アウトというルールなのだから、不安で仕方がない。


「何してんの。さっさと運びなさいよ」


 緑が顎をしゃくる。大輔は慌ててたぬきの頭を両手で持ち、緑に視線を向ける。


「何やってんの」

「いや、僕が頭を持つから、足のほうを緑ちゃんが……」

「バカ言ってんじゃないよ。そんなもんあんた一人で十分でしょ」


 さも当然のような口調で言う。


「そんな……」


 緑の言葉にショックを受けながらも、大輔は下半身を落としてグッと踏ん張り、たぬきを持ち上げてみる。


「お、重い……」


 大輔はゆっくりとした足取りで運んで行く。


「もっと早く運べない? 男でしょうが、あんた」


 緑ちゃんのほうが力持ちのくせに、と言いたいが、もちろん口には出せない。


「緑ちゃん、タクシーで運ぼうよ」

「バカ。お金がもったいないでしょ」


 ギャンブルで湯水のごとくお金を使いまくった人間の言う台詞とは思えない。

 やっとの思いで駅に着くと、エレベーターを使ってホームまで運び、電車に乗り込んだ。たぬきの置物を抱えた大輔が車内に入ると、乗客が一斉に視線を向けてきた。


「一緒にいると恥ずかしいから、あっちに行ってるわ」


 そう言って緑は大輔から離れた。そして優先座席に空いていた一人分のスペースを見つけると、大きなお尻を強引にねじ込んだ。


 各駅停車の電車が停まる度に乗客が増えていく。車両内が徐々に混み合ってきた。

 最近観たテレビで、混み合う電車内にベビーカーを持ち込むのはアリかナシかを討論していたけれど、どうしてもベビーカーを持ち込まざるを得ない母親の気持ちというのはこんな感じなのかもしれない。


 次の停車駅でさらに五、六人の客が乗り込んできて、いよいよスペースに余裕がなくなってきた。

 チッ、という大きな舌打ちが聞こえた。

 大輔は居たたまれない気持ちになり、たぬきの頭をギュッと抱きしめた。

 たぬきと一体化した大輔は、そっと目をつぶり、早く新宿に着くことだけを願った。

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