第9話 クリコ

 黒猫の捕獲に失敗した二人は、歌舞伎町の雑踏の中を沈黙したまま歩いていた。人々の喧噪が耳を埋める中、ゆっくりと歩を進めるくるみの額にはじんわりと汗がにじんでいた。強い風がびゅっと吹きつけ、額から首筋へと汗が伝っていく。


「そう言えば」


 博が口を開いた。


「テレビで観たんだけど、猫カフェってのがあるんでしょ。猫を連れて入れるカフェ」

「あるよ」

「このへんにそれがあればの話だけど、そこに来てる人に貸してくださいって頼むのはどうかな」

「それは……さすがに厳しいんじゃない」


 見知らぬ人間にいきなり声をかけられて、愛猫家が我が子同然の猫を貸してくれるとは思えない。


「じゃあ、一般宅を一軒ずつ当たってみる?」

「うーん……それも可能性は低そうだけど……それ以外にないよね」

「うん。ほかに方法はないと思う。そうするしかないよ」


 博の言うとおりだ。とは思うが、あまり前向きな気持ちにはなれなかった。

 UKCが過酷な勝負であることはわかっていたつもりだが、レッドカードのお題でこれほど手こずっているという事実が、くるみの心を重くする。


 その時くるみは、今歩いている場所がラーメン屋『トン吉』の近くであることに気づいた。すぐ先の路地を曲がれば、先月までキャバクラで同僚だった凛と通い詰めていたラーメン屋のトン吉がある。

 トン吉の看板メニューである豚骨ラーメンが頭に浮かぶ。急にお腹が減ってきた。だけどのんびりラーメンを食べている時間などない。


「あ」


 不意にくるみの脳裏に、凜とトン吉で交わしたある日の会話が蘇った。

 凜はその日、鼻先に絆創膏を貼っていた。

 くるみがそれを指さして「どうしたの」と聞くと、凜は「クリコにひっかかれてね」と言って笑った。


「クリコ?」

「うちで飼ってる猫」

「猫飼ってるんだ?」

「一人暮らしは寂しすぎるから、最近飼い始めたんだ」

「へえ、そうなんだ」


 特段盛り上がることもなくその話題は流れたが、凜は確かに猫を飼い始めたと言っていた。


「なに?」

「バイト先で仲良かったコが、猫飼ってるって言ってた」

「え? 本当に?」

「……うん」

「それ、早く言ってよ」

「ごめん……忘れてた」


 我ながらバカすぎる。真っ先に思い出さなければいけないことだったのに。共に暮らした17年間で、博から手をあげられたことは一度もないが、今、生まれて初めて殴られたとしても文句は言えない。


「さっそく連絡取ってみてよ」

「スマホがないから、それはできない」

「ああ、そうだった」


 直接自宅に行ってみるしかない。凜のマンションには一度だけ遊びに行ったことがある。出勤のない日に二人でタコパをして、くるみはジュース、凜はビールを朝までダラダラと飲みながら何時間もお喋りしたのは、くるみの東京生活における数少ない良い思い出だ。


 都営地下鉄浅草線「戸越駅」下車。駅から徒歩数分の場所にひっそりと建っている、真っ青な外壁の四階建てのマンション。


「ここ? 派手だね」


 博がマンションを見上げながら呟く。


「ここで待ってて」


 博をその場に残し、エントランスへと入っていく。

 凛には最後の出勤日に、父親と一緒にUKCに出場することになったと伝えた。凜は絶対にやめたほうがいいと言って止めたが、くるみの決意は変わらなかった。

 あの時の本気でくるみを心配していた凜の顔を思い出すと、胸が痛む。あれだけ反対していた凜が協力してくれるだろうか……。

 凜の部屋の前に立ち、軽く呼吸を整える。

 ドキドキしながらインターホンを押そうとしたその時、ドアが開いた。


「おわっ」

「おわっ、じゃないよ。もっと早く来なさいよ」

「え?」

「くるみがUKCに出るっていうから、早起きしてテレビ観てたんじゃない。ま、早起きっつっても、十時起きだけど」

「観ててくれたんだ」


 凜は宙に浮かぶ昆虫型カメラに視線を向けた。「いえ~い」とピースサインを送る。


「これで私も全国デビューか。いや、そんなことどうでもいいんだよ」


 凜は一人でツッコみを入れながら、くるみの目をじっと見据える。


「猫ってお題が出た瞬間に、絶対に私のとこに来るって思ったのに、何で歌舞伎町で野良猫なんか探してんのよ」

「あ、いや……すっかり忘れちゃってて……ごめん」

「まあ、お父さんのズッコケには笑ったけどね」


 猫探しに必死になっていたのでテレビ中継のことをすっかり忘れていたが、自分たちの行動が全国の人に観られているのかと思うと、今更だが恥ずかしさがこみ上げてくる。

 凛はちょっと待っててと言って、一度奥へ引っ込み、すぐに戻ってきた。

「はい」と言って凛が猫用のキャリーバッグを差し出す。メッシュ窓から覗き込むと、白い毛並みの小さな猫と目が合った。


「メスのマンチカンのクリコ。短い脚がキュートでしょ」

「うん、かわいいね。ありがと」

「無事に返してくれるんだよね?」

「もちろん。あとでちゃんとスタッフの人が届けてくれるから」

「ならよし」


 凜はそう言いながら親指を突き出した。

 くるみは笑顔を返し、キャリーバックをしっかりと抱きしめる。


「この後もさ、私が用意できそうなモノだったら、用意してあげよっか」

「いや、気持ちは嬉しいけど、そういう協力の仕方はルール違反なの。協力者も重い罪に問われるし」

「えっ、そうなの? こわっ」


 凜が大げさにのけぞる。


「じゃあ、とりあえず応援してるから、頑張ってね」

「うん。ほんとにありがとう」


 くるみはもう一度お礼を言って立ち去ろうとしたが、以前から抱えていた疑問がふと浮かび、凜に投げかけた。


「ねえ凛ちゃん。猫ってなつかないんでしょ。なつかない動物なんて、飼ってて楽しいの?」

「はぁ? わかってないなぁ。それがいいんじゃない。素っ気なさがたまんないのよ」

「……へえ、そうなんだ」


 わからない。素っ気なさの何がいいのかまったく理解できない。とくるみは思ったが、それを口にすることはなく、曖昧な笑顔を浮かべたまま、じゃ、と言って小さく手を振った。



 地下鉄の車内に猫のみゃあという鳴き声がやんわりと響く。くるみと博が座っている車両にはある程度の人数の乗客が乗っているが、電車の走行音が大きすぎて猫の鳴き声が迷惑になることはない。

 くるみは心底ほっとしていた。いくら仲が良いとはいえ、大事な愛猫を貸してくれるだろうかという不安があったが、凜は拍子抜けするくらいあっさりと貸してくれた。

 凜が猫を飼っていなかったら、今頃はまだ歌舞伎町の街を迷子になった子供のように半べそをかきながら右往左往していたことだろう。改めて凜に感謝の念が湧いてくる。


「そう言えば、くるみが子供の頃、猫を飼うことを反対されて家出したことあったよね」


 隣に座っている博が口を開いた。


「……ああ、あったね、そんなこと」


 くるみはすぐさま思い出した。

 猫を飼っているクラメイトの家に遊びにいった時、そのあまりの可愛さに衝撃を受け、自分も猫を飼いたいと思ったのだった。当時のくるみたちが住んでいたアパートはペット禁止で、それを理由に両親から却下され、くるみは家を飛び出した。


 自宅から遠く離れた小さな公園のベンチで何時間も座り込んでいたが、夜になり雨も降ってきて、途端に怖くなり、走って家まで帰った。

 母親は珍しくきつい口調でくるみを叱りつけ、くるみは泣きながら何度もごめんなさいと謝った。

 そこへ博が泥だらけになって帰ってきた。くるみがよく遊びに行っている学校の裏山に探しに行っていたと言う。

 博は泣きじゃくっているくるみを見て、ふぅと大きく息を吐き、「よかった」と言って笑った。


「ご近所さんも一緒に探してくれて、大騒動だったんだよね」

「うん。知ってる」


 後日、両親はくるみの捜索を手伝ってくれた人たちの家を訪ねて、迷惑をかけたことを詫びて回ったと後になって母から聞かされた。子供がいなくなってしまった不安や焦りはどれほどのものだっただろうか。今思うと本当に申し訳なく思う。


「まあ、あのアパートがペットオッケーだったとしても、どのみち猫を飼うのは無理だったけどね」

「……何で?」


 くるみが不思議そうな表情を浮かべて問うと、博は照れたような笑みを浮かべながら答えた。


「父さん、猫アレルギーなんだ」




 くるみはクリコを入れた猫用キャリーバックを手に、スタジオマルタに到着した。スタジオの扉を開け、中に足を踏み入れると、待ち構えていたリッキー小野田が満面の笑みで迎える。


「おかえりなさーい! 待ってましたよ~」


 リッキーの明るい声とともに、観客たちの大きな拍手が響く。

 リッキーが手元のタブレットを操作しながら、


「柿谷ペアが選んだ難易度カラーはレッド。お題は【猫】です。では、持ってきたモノを、こちらの台の上に乗せてください」


 そこにはオープニングの時にはなかった、高さ一メートル程度の白い円柱の台があった。くるみは中にいるクリコが驚かないように、キャリーバックを慎重に台の上に置いた。


「では、拝見します」


 リッキーがバックのファスナーを開け、クリコを優しく抱き上げる。


「これはまた。あ、きゃは」


 クリコがリッキーの顔をペロリと舐める。リッキーは数十秒ほどクリコとじゃれ合っていたかと思うと、


「どこからどう見ても、かわいい猫ちゃんです。クリアー!」


 と親指を立てて高らかに叫んだ。


「ということで、レッドカードのお題をクリアした柿谷ペア、一千万円獲得となります!」


 ファンファーレのような陽気なアタック音が鳴り、観客が盛大な拍手と指笛を鳴らす。スタジオのボルテージが一段と上がった。

 一千万円獲得と聞いて、くるみは背中に寒気を感じた。一千万といえば、とんでもない大金だ。わずか数時間で手に入るだなんて……。

 いや、優勝しなければ何億手に入れようが意味はない。目先の獲得金額に捉われていてはいけないのだ。くるみは改めて自分に言い聞かす。


「今大会最初のクリアとなりましたが、いかがですか」


 リッキーがくるみにマイクを向けてくる。


「まだ始まったばっかりだから。一千万円なんて、野球の試合で言えば一回表に二塁打を打ったようなもんでしょ」


 くるみのたとえ話に、リッキーは「うまいなあ、言い得て妙!」と言って大袈裟にのけぞった。


「お父さんはいかがですか」


 今度は博にマイクが向けられる。その瞬間、博は大きなくしゃみをした。飛沫がリッキーの顔面にかかる。


「ぶほっ。ちょっとお父さん」

「いやすみません。アレルギーなもんで」


 さすがのリッキーも苦い表情をしている。

 博は目をぱちくりさせながら、ハンカチで顔を拭っているリッキーに向かって、再び大きなくしゃみを放った。

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