第8話 声がけ

○ 柿谷博・柿谷くるみ 初日12時


 スタジオを出て廊下を進むくるみと博の後を、昆虫型カメラのDBが二台、飛びながらついて来る。カナブンのようなフォルムをしているDBの微かな羽音が、走れ、時間がないぞ、と急かされているようで不快だ。

 廊下の壁には映画のポスターや『春日モン太のうきうきイブニング 視聴率15.4%!』と書かれた紙などが貼り出されている。


 直通エレベーターで一階まで降下し、建物の外へ出る。太陽が照りつけ、肌が刺すように痛い。UKCは毎年秋の開催と謳ってはいるが、今はまだ九月で、くるみにとって九月は真夏だ。十一月頃に開催されればいいのに、と思わずにはいられない。


「さて、どうしようか」


 博が辺りを見回しながら呟く。これからどのように行動するのか、くるみにはまだ何も浮かんではいない。


「猫っていうお題自体は、そんなに難しくなさそうな気はするんだけど」


 博が言う。


「でも、五時間しかないから。そう考えるとけっこう難しいと思うよ」

「ああ、そうか」


 ひとつのお題で制限時間は五時間。モタモタしてはいられない。貸してくれる人をSNSで募集できたらどんなに楽だろう。


「購入するのはダメだから、ペットショップに行くわけにはいかないしなあ」


 博が腕を組んで首をひねる。


「くるみは、猫飼ってない?」

「ううん。私が飼ってるのは犬」

「犬飼ってるんだ」

「飼ってる」


 この状況で猫を飼っていたら真っ先に言うだろう。それは博もわかっているはずだが、会話をすることで何でもいいから糸口を見つけようとしているのかもしれない。


「歌舞伎町に野良猫っていないのかな」


 博が遠くのほうに視線をやりながら呟く。


「くるみは歌舞伎町で働いてたんだろ。見かけたことない?」

「どうだったかな……」


 博はしばらく考え込んだ後、行ってみようか、と提案した。


「もしかしたら、いるかもしれないし」

「……そうだね」


 くるみは同意し、二人は歌舞伎町へと向かうことにした。

 歌舞伎町は日本一の歓楽街だ。多種多様な人種、飲食店や風俗店、キャバクラやホストクラブやラブホテル、アミューズメント施設や映画館、ドン・キホーテ本店などなど。

 くるみはネオンが煌いている夜の歌舞伎町と、酔っ払いが倒れている明け方の歌舞伎町しか知らない。昼の歌舞伎町は、派手なファッションに身を包んだ個性的な人たちも多く、ガヤガヤと賑わってはいるが、いたって普通の街だと感じた。


 くるみは歌舞伎町で働き始めた頃のことを思い出した。

 長野にいた頃は、歌舞伎町といえば、胡散臭い、治安が悪い、怪しい外国人がたくさんいる、といったダークなイメージしかなく、行ってはいけない場所だと思っていたが、実際は違った。暴力事件が頻発したり、たまに発砲事件が起こっていたのは大昔の話だ。


 で、肝心の野良猫は……いない。いそうな雰囲気はあるが、いない。

 歌舞伎町のような人の多い賑やかな場所を猫は好まないのだろうか。猫のことはさっぱりわからない。猫は人間になつかないと聞く。なつかない動物など飼って楽しいのだろうか。


 ふと見ると、カラスがゴミをあさっている。明け方にカラスを見ることはよくあったが、昼でも我が物顔でゴミ袋を食い破っているとは、よほど神経が図太いのだろう。お題がカラスだったらよかったのに。いや、よくはないか。カラスなんて触りたくもない。


 歩いているうち、くるみの勤めていたお店の前まで来た。洋館を模した外観に電飾がほどこされ、異質な存在感を放っている。初めて見た時はときめいたものだが、今見ると悪趣味だと感じる。


「お兄さん、どうっすか。三千円だけでいけますから」

「あ、いや、私はちょっと……」


 博が全身黒ずくめのロン毛の男に声をかけられている。昼キャバの客引きだろうか。


「いくよ」


 くるみは博の手を取り、強引に男から引き離した。後方から、何なんだよ、という声が聞こえた。


「いやぁ、ああいうの初めてだから、戸惑っちゃった」

「いいカモだと思われたのよ。相手にしなくていいから」

「めんぼくない」


 博は恥ずかしそうに肩をすくめた。


「やっぱり通行人に声をかけたほうが早そうね」

「猫を飼ってる人を探すの?」

「そう」


 野良猫を探すよりは効率がいいだろう。最初からそうしておけばよかった。 

 とは言っても、いざ声をかけるとなると、勇気が出ない。多くの人が目の前を通り過ぎているというのに、何度も口を開けては閉じ、言葉が詰まる。知らない人と喋るという行為は、ファストフード店やキャバクラのバイトで数え切れないほど経験しているが、それとはまるで勝手が違う。

 目の前にいる他人との一瞬の接触が、くるみの不安を募らせ、立ちすくませる。


 そんな中、博はあっさりと、近くを歩く三十歳前後の男性に声をかけた。


「すみません、ちょっといいですか」

「はい?」

「お聞きしたいんですが、猫を飼ってはいませんか」

「猫? 飼ってないですけど」

「そうですか。すみません、突然話しかけて。ありがとうございます」


 くるみは博の自然な声がけに感心した。いや、自分ができなさすぎなのか? 声がけはUKCにおいて基本中の基本だ。これができなくては勝ち残っていけるはずがない。


 くるみは勇気を出して、前方から歩いて来る若い女性に声をかけた。

 女性はひと言「邪魔」とだけ言い放ち、足早に行ってしまった。

 その後も何人かに声をかけたが、話をまともに聞いてくれる人のほうが少なく、さっぱり収穫がなかった。


「あの~、ちょっとすみません」


 後方から博の大きな声がして振り返ると、博が十代と思しき女性の二人組に声をかけていた。


「どちらか猫を飼ってないですかね」

「猫? 猫ってあの猫?」

「はい、にゃんにゃんの猫です。動物の」

「飼ってないよ」

「てかなんなの? おじさん」

「ああ、ごめんなさい。UKCってご存知ですか? 私ね、それの出場者なんですけど」

「UKCって、借り物競争の? マジ? ウケるんだけど」


 若い二人の女の子が手を叩いて笑う。


「それでね、お題が猫なもんで、探してるんですよ」

「だったら野良猫でも捕まえれば」

「ええ、さっきまで探してたんですけど、いないんですよねぇ」

「歌舞伎町公園にいるよ。最近SNSで話題になってる真っ白い猫」。

「え? 本当ですか?」


 博は意外な方向から飛んできた情報に驚く。

 どうもありがとうとお礼を言うと、おじさん頑張んなよと女子二人が手を振った。


 博と女子たちの会話を聞いていたくるみは、とりあえず行ってみようと言った。歌舞伎町公園はその前を何度か通ったことがあるので、場所は知っている。遊具らしきものは何もない、小さな神社にくっ付いている小さな公園だ。


 歌舞伎町公園に足を運んだくるみと博だったが、果たしてSNSで話題だという白い猫の姿はなかった。代わりに、公園の隅でポツンと座っている黒い猫がいた。


「あ」

「猫」


 くるみと博がほとんど同時に指をさした。


「確か白猫って言ってたよね」

「別の猫なんでしょ。どの猫だっていいよ」

「だよね。よし、あれを捕まえよう」


 と、博が意気込み、静かな足取りで黒猫に近づく。慎重に距離を詰め、手を差し伸べるが、黒猫はしっぽをピクリと震わせたかと思うと、身をよじりながら博の手を避けた。

 黒猫は数メートル離れたところで動きを止め、静かな視線を博に向けている。警戒と好奇心が入り混じったような瞳で、博の動きをじっと見つめている。


 再びじりじりと距離を詰めた博は、静寂を切り裂くような猛ダッシュで黒猫に飛びかかろうとした。しかし、地面のわずかな窪みにつまづいてしまい、顔面から地面に倒れ込んでしまった。

 黒猫は憐れむような表情で小首をかしげた後、スキップするような足取りで去って行った。


「ドジ」


 くるみは深いため息をついた。

 博は鼻先に土をくっつけたまま、呆然とした表情を浮かべていたが、くるみの冷たい視線を感じたのか、ばつが悪そうにぎこちない照れ笑いを浮かべた。

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