受け継がれし箱

おひとりキャラバン隊

受け継がれし箱

 そこは、高層ビルが建ち並ぶ市街地の片隅、昔ながらの飲み屋が軒を連ねる「ゴールデン通り」の裏路地だった。


 表通りのネオンの光さえ届かないその場所は、薄暗く湿った雰囲気に支配されていた。


 7月の都内は、梅雨が明けても蒸し暑さは収まらず、エアコンの排気で熱されたその路地裏は、それだけでも倒れそうな暑さなのだが、今日の様に夕立ちが降った後は、むせ返る程の湿度で、もはや立っている事さえ苦痛だった。


 そんな裏路地の、暗がりに並ぶ扉の一つがゆっくりと開き、扉の隙間から、黒髪の人の頭が一つ出てきた。


 その頭は、周囲を警戒する様に何度か左右に回転していたが、危険は無いと思ったのか、扉が更に少し開いて、華奢な身体に、紺色をベースにしたセミカジュアルのスーツを纏った女が扉から出てきた。


 女は扉を出てから、どこに行く訳でも無く、その場所で店の壁にもたれる様に立っているだけだった。

 

 数分後、女が出てきた扉の右隣のトビラが開き、中から大きなゴミ袋を持った、タキシード姿の男が表れ、店の壁に設置されたごみ置き場の蓋を開け、手に持っていたゴミ袋を中に入れた。


 男は扉の横で壁にもたれて立つ女の姿を見て、

「あんた、こんな所で何してるんだ?」

 と声を掛けた。


 女は男の方を見て、返事をする代わりに、肩をすくめて見せた。


 まるで「どうだっていいでしょ」とでも言いたげだ。


「こんな蒸し暑い所に居たら、熱中症になっちまうぞ?」

 と、タキシード姿の男は親切のつもりで声をかけたが、女は一言、

「湿度が高い方が好きなの」

 と返し、すぐに路地の奥に視線を向けたのを見て、


「ふうん。ま、いいけどよ」

 と言いながら男は肩をすくめ、先ほど出て来た扉をを開けて、再び中に入って行った。


 残された女は、誰も居なくなった裏路地でキョロキョロと周囲を見回し、それはまるで、誰かを待っている様にも見えた。


「ここで合ってる筈なんだけど・・・」

 と女が呟きながら、裏路地が大通りに向かって伸びる方向に顔を向けた時、正に大通りから裏路地に入って来る男の姿を視界に捉えていた。


 薄暗くて男の容姿はよく解らないが、シルエットから察するに、決して背は高くない。


 しかし、身体は筋肉質な様で、大切そうに荷物を抱えているその腕が、時折月明りで照らされると、そこにはよく鍛えられた腕の姿があった。


 女はもたれていた壁から背を離し、こちらに向かって歩いて来る男の方に歩み寄った。


「あなたが五郎さんかしら?」


 女は男に歩み寄り、男が大切そうに抱えている箱をチラチラと見ながらそう訊いた。


 男は女との距離が1メートルくらいの所で立ち止まると、胸に抱えていた箱をその場で、ゆっくりと路面に置いた。


「ええ、そうです。祖父の遺言で、今日のこの時間に、この場所でこの箱をあなたにお返ししなければならないと言われたので、ここまで運んできましたが・・・」


 男はズボンのポケットからハンカチを取り出し、滝の様に流れる額の汗を拭いた。


「ああ、暑い! それにしても、この箱は一体何が入っているんです? 重くはないけど、とにかく『絶対に開けたり壊したりするな!』って祖父から厳重に言われていたので、緩衝材をグルグル巻いて持ってきましたが・・・」


 女はこの蒸し暑い中でも汗ひとつかいていない。


 容姿は整っていて、化粧っ気は無いが、明るい場所で見れば美しい女性なのだろうと想像できた。


 女は口元を隠す様にして小さく息を吐くと、

「有難う御座います」

 と一言礼を述べ、「この時間、この場所でなくてはならなかったのです。本当に、有難うございます」

 と女は続け、深く頭を下げた。


 その所作は、どこかの高級料亭か老舗旅館の女将の様に優雅で、もしかしたら女の本業はそうした業界なのかも知れない。


「荷物を確認させて頂いても宜しくて?」

 と女は顔を上げて五郎に訊いた。


 五郎は慌てて荷物をグルグルに巻いていた緩衝材を剥がし、

「あ、ああ! もちろんです!」

 堅く結ばれた高級そうな風呂敷に包まれたその箱を、落とさない様に、慎重に持ちあげて女に手渡した。


 女は見た目では想像できない力で、堅く結ばれていた筈の風呂敷を解くと、中から出て来た、暗がりでも分かる程に美しい、漆塗りの箱を見つめていた。


 男には女がその箱にどの様な思い入れがあるのか、祖父との人間関係にどう関わるものなのかも分からないが、女の表情は、その箱を通じて、祖父との思い出を一つ一つ回顧しているようでもあった。


「その箱で間違いありませんか?」


 と男が問うと、女はゆっくりと頷いて、その箱を愛おしそうに胸に抱いていた。


 男はそんな女の姿をしばらく見ていたが、薄闇の中で、透き通る様な光沢を放つその箱の姿に、


「美しい箱ですね。きっと、とても高価なものなんでしょうね」

 と言うと、女は首を横に振って、


「高価なものかどうかは分かりませんが、千年の歴史を紡ぐ、とても貴重なものなのです」

と言った。


「へぇ・・・、千年ですか」


 にわかには信じられないが、とても高価なものに違いないと、男は心の中で思っていた。


「祖父はその箱を『絶対に開けてはならん!』と、それはもう厳しく伝えてきていたんですが、その箱には一体、何が入っているんですか?」


 男が興味を拭いきれずにそう問うと、女は男の顔を真っすぐに見返し、


「これは、1000年前にあなたの祖先が私の母から受け取った『玉手箱』です。これが無かったおかげで私は嫁に行く事が出来ず、今日やっと取り返す事が出来ました。これでやっと海に帰る事が出来ます」


 そう言った女は顔を上げて男の方を見返した。


 ちらりと見えた首筋には、鮫のエラの様なスリットが3本程見えており、蒸し暑い空気の中でエラで激しい呼吸をしながら男の腕を引いた。


「さて、私は海に帰って婚活に勤しみますが、あなたはどうされますか? あなたさえ良ければ、このまま私と竜宮城の跡地に新居を構えて生活する事もできますよ?」


 男は驚いたが、少し考えてから答えた。


「この世は既に地獄みたいなものですし、海の底で幸せになれるなら、それはとても素晴らしい事なのかも知れません」


 今度は女が驚いた様に顔を上げ、

「あら、半分冗談で誘ってみたのだけど、あなたがそれでもいいのなら、ここでこの箱を開けてごらんなさい。そうすれば、あなたはここでこの世と別れる事になり、今後は私とずっと一緒に生きて行ける事でしょう」


 2035年、第三次世界大戦の終戦から10年。ロシアと中国の植民地となった日本では、もはや明るい未来など男には見れそうに無かった。


 男は迷う素振りも見せず、にこやかな笑みさえ湛えて玉手箱を受け取り、その蓋を勢いよく開けたのだった・・・・・・・・・


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受け継がれし箱 おひとりキャラバン隊 @gakushi1076

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