カスタァド・タルト

野村絽麻子

ボクと黒猫と雪の朝

 まだ明けきらない西の空に傾いだ鼓星オリオンが沈もうとしている時間。

 やけにしんとした気配を感じて、目を覚ましたボクは毛布に包まったままで耳を澄ませる。ふくぅ、ふくぅ、とちいさく聴こえる黒猫オペラの呼吸音の合間。

 さふり。

 やわらかな何かが薄く零れ落ちる音がした。たまらず跳ね起きてカーテンを捲る。

「……やっぱり」

 硝子窓の向こうは一面の銀野原プラチナムだった。

 パジャマの上から小絨フランネルの上着を羽織ると、欠伸を漏らした黒猫が毛布の中に潜りこみ直すのが見える。寒い日の朝の黒猫オペラはとっても寝坊助なんだ。

「少し出てくるけれど」

 羊毛ウールのマフラーをぐるぐると巻きつけながら問えば、毛布の隙間に見えていた滑らかな尻尾がするりと引き込まれる。どうやら本格的に朝寝坊を決め込むことにしたのらしい。

 仕方ない。ボクは黒猫を諦めて、帽子を眉の上まできっちりと被ってから、ひとりで扉を押し開いた。


 外に出ると雪はもう降りやんでいた。まだ誰も踏んでいない、さふさふの真っ白な世界に足跡をつけていく。銀色に縁どられた階段を降り、凍り付きそうなオミノキの葉を弾きながら、歩道を歩いていく。

 途中でヘッドライトを灯した四輪車がそろそろと慎重にボクを追い越した。この天候なのに風変わりな人もいるものだ。もっとも、向こうからしたらボクこそ風変わりに見えるのかも知れないけれど。

 しばらく歩くと公園の入り口に到着する。

 白い息を吐き、雪帽子をかぶった外灯の群れを通り過ぎ、ベンチに積もった雪を雪兎に変えながら、ようやくボクは目的の場所にたどり着く。

 それはまるで白い箱。雪原の中にひょろりと立つ姿は少しだけユーモラスに見えなくもない。寡黙なその箱は百葉箱と呼ばれるもので、叔父によれば、昔はそこかしこで見かけたものらしい。

 よく見れば、側面が通気の為の鎧戸で出来ているのがわかるはずだ。ポケットから取り出した鍵束の中からいちばん小さな鍵を差し込むと、カチリとわずかな音がして錠前シリンダーが回転する。そうすると白い箱の手前の面がそっくり開く仕掛けになっている。

 中には旧式の計測器がいくつか置いてあり、ボクはその目盛を注意深く読み取ると、さっきとは反対側のポケットから取り出した帳面ノートにそれを書き付けた。


 思えば、ボクが黒猫に出逢ったのも、こんな雪の日の朝だった。

 今朝と同じように白い息を吐きながら此処を訪れた時、百葉箱の戸が細く開いていたのだ。そっと扉を開くと、箱の中で丸くなって眠る痩せ細った子猫を見つける。

 どうやって入り込んだのかは未だもって謎のまま。けれど、百葉箱からボクの部屋に居所を移して以来、黒猫はすくすくと育つ。天鵞絨ビロードの毛艶と、黄水晶シトリンの瞳。好奇心旺盛で勇敢で、今ではボクの寝台ベッドを我が物顔で使うまでになった。

「……早く帰らなくちゃ」

 今朝がたの黒猫の欠伸を思い出したボクは、足早に郵便局へと向かう。

 人気のない石造りの建物は恐ろしく冷え込んでいた。まるで博物館か美術館のように足音が天井まで木霊する。

 いつものように星間連絡汽船インタァステラ・フェリー宛てに宇宙郵便の送信(さっき百葉箱で観測した数値だ)を済ませると、来月発売の記念切手をチェックしてから建物を出る。


 帰り道、自分のために露店でホットショコラを買う。それと、デリで焼き菓子も。ハトロン紙に包まれたまだ温かい檸檬色の焼き菓子には卵と蜂蜜が入っていて、ボクと黒猫の好物だ。春先のお祭りに向けて売り出されるもので、この時期にしか買えないから、逃さずに食べておかなくちゃいけない。

 やっと動き出した街に背を向けて家路を急ぐ。

 足元の雪はいつの間にかすっかりと踏み固められて、寒水石のように白く透けている。きっと、今ごろ部屋では目を覚ました黒猫がお腹を空かせてボクの帰りを待っているはずだ。どうか羽枕が犠牲になっていませんように。そう祈りながら、石畳を駆け抜ける。

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