第4話 幸福な人生
その日の夜は何度もお互いを求め合った。気付けば夜も明けていたけれど、一葉から離れたくない俺は何度も彼女と唇を重ねた。それに応えるように、一葉は俺の体を啄んで、脚を絡めた。その動作の一つ一つがぎこちない。けれど、俺はその仕草が愛おしくなって、また唇を重ねる。その繰り返し。そしてお互いに精も根も果てて横になり、服を着るのも忘れて全裸で重なりあって眠った。
映画館に行ったのは正午もとうに過ぎた頃だった。この頃の俺達はまだ車を持っていなかったから、電車に揺られて一番近くの劇場まで向かった。人目が少ない時間帯なのを良いことに、何度も一葉と手を繋いだ。どちらからということもなく、気がつけば互いの指と指を絡め合わせていた。
その日観た映画は、これまでに観た何よりも心に染み込んだような気がした。
劇場を出て、二人でファミレスに向かった。以前の人生を思い出し、もっと洒落た店をとも思ったが、大学生のお小遣いではそこまで高い店にも行けない。探せば良い店はあるかもしれなかったけれど生憎、この時代にどの店がどのにあったかまではっきりと思い出せなかった。
それにしても、不思議な気分だった。箱を開ける前のことは覚えている。けれど、自分は大学生の自分である認識の方が強い。俺が大学生に戻ったというより、箱を開けた俺の意識が、大学生の俺の脳味噌にお邪魔したような気持ちに近いかもしれない。
ファミレスでディナーを終えて、今度は二人で俺の家に向かった。シャワーを浴びて、二人で映画の話をして、そしてまた体を重ねた。
「あたしが好きなの気付いてた?」
一葉の言葉に、俺は首を横に振った。
「全然」
「だよね。あんたはそういう奴だ」
「でも今は一葉といたい」
「ずるいなあ」
俺の言葉に、一葉は困ったように笑った。俺はそんな一葉をもう一度抱きしめる。一葉はゆっくりと俺の胸を押して顔を近づけて今度は彼女の方から唇を奪う。
その日から俺と一葉は大学を卒業するまでほとんど毎日、一緒に過ごした。大学を卒業してからは一葉は一足先に動物病院の看護士に就職して、職場の近くに部屋を借りた。一方、俺は大学院には行ったが博士課程には進まずに、大手の製薬会社に就職した。数年間働いて、一葉の職場の近くに家を買い、一葉と一緒に暮らすことを提案した。一葉は迷うことなく首を縦に振ってくれた。
結婚までもそう時間はかからなかった。一葉と初めて映画に行ったあの日とは違って、レストランを予約して食事をし、その帰りにプロポーズした。俺と一葉、お互いに共にいることに一度も苦を感じることがなかったように思う。俺も一葉も時間の融通の効く仕事ではなかったけれど、仕事もあまり遅くまでは残らずに、短くても二人の時間を大切にした。
唯一の不安は子供だった。結婚して、避妊具を使わないようになってからも中々子供ができないことを心配した一葉を見て、俺達は病院で検査することにした。結果、一葉の身体は精子不動化抗体を多く産出する、所謂不妊症であることがわかった。
遺伝による免疫異常だ。俺も一葉も、不妊治療も難しいとは知っている。人工授精の手もあったが、お互いに話し合って、俺達は養子を取ることに合意した。
「子供は欲しいけど、それは自分の血縁である必要はないよ」
と、一葉は言った。それなら、あたしは自分に出来ることを目一杯にしたいのだと。その気持ちは俺にも分かる。共に学び、共に人生を過ごした俺達は、お互いの価値観が自分のもの以上に理解できた。養子縁組の手続きをして、児童養護施設から俺達は四歳の子供を引き取ることにした。
自分達に子供ができない代わりもあって、
問題というほどの問題も起こらなかった。血縁上の父母でないことを愛華もほとんど気にせずにいてくれた。仕事の方は、以前の人生での研究所を任されるような大出世とまではいかなかったけれど、三人で暮らしていけるだけの余裕は、一度として欠かすことはなかった。
一度だけ、愛華が小学校低学年の頃に車に撥ねられる事故があった。俺と一葉は肝を冷やしたが大事はなく、打ちどころが良くて骨折もしなかった。後遺症も残ることなく完治して、その後の人生にも全く影響を残すことはなかった。
愛華はすくすくと成長して大学は医学部に合格した。
「お父さん、お母さん。ありがとう、ここまで来れたのは二人のおかげ」
医学部の合格通知をもらった愛華はそう言って、私達にハグをしてくれた。さすがの俺の目からも涙が流れ、そんな俺を一葉と愛華が二人してからかった。
その頃になると医者を目指す愛華を支える為に、一葉は休職を選び、代わりに俺も残業覚悟で仕事に取り組むようになった。それでも全く苦ではなかった。
幸福だった。
何を失うこともない順風満帆な日々。心配することも少ない平穏な日々の中。愛華も六年の大学生活を終え、研修医として病院に従事するようになった。
そんな平和なある日、たったひとつのニュースが俺の心を掻き乱した。
介護疲れに母親を殺してしまった女性のニュースだった。容疑者の名前がテロップに表示され、俺は思わず声を出した。
「どうしたの?」
朝食時にそぐわない大声に驚いた一葉が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもない」
言いながら、俺の目線は画面に釘付けになっている。
そこにあったのは、友美の名前だった。年齢も合う。同姓同名の別人である可能性はある。けれど、その次に映る容疑者女性の顔を見て息を呑む。
俺が彼女の顔を見間違える筈がない。友美だ。歳を食ってしまってはいるが、俺には分かる。あれは間違いなく友美だ。
その日の俺はずっと上の空だった。仕事で普段しないようなミスをして、部下に心配された俺は具合が悪いからすぐに帰るという連絡を一葉にして、少しだけ早めに帰宅することにした。それでもあのニュースが頭から離れない。
「ただいま」
「おかえり。大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと疲れが出ただけ」
俺は一葉にまで心配をさせまいと、静かにハグとキスをして、シャワーを浴びた。
その日の夜、一人で布団に入った俺のもとに一葉が来た。
「眠れる?」
「どうだろう」
「何かあったなら、ちゃんとあたしらに言ってよね」
一葉は俺の布団に潜り込むようにして、俺の背中を抱きしめた。
「もうそんな歳でもないだろう」
「いけない?」
「そんなことはない」
俺はくるりと体を捻り、一葉に応えようと正面を向いて、ギョッとした。
「一葉……」
一葉の顔が見えない。彼女の顔がある筈のところに、箱があった。
「なあに?」
一見、一葉が箱を被ったように見えるがそんなわけはない。一葉の声はくぐもることなく俺の耳に届いたし、この箱にも当然見覚えがある。
「俺は……俺は……」
俺は幸せだ。間違いなく幸せな人生を送っている。俺だけじゃない。一葉と愛華と一緒に、俺達はこれからも幸せに過ごせる。幸福な一生を送ることが出来る。俺は一葉に、一葉は俺に、愛華も俺に、俺も愛華に、一葉も愛華に、そしてこれからも新しい家族だって──。
それでも俺は抗えない。この人生を認められない。たとえ幸福だとしても、きっと心にささくれ立つこの気持ちはこの世界では呪いのように俺を蝕む。
全ての可能性が繋がっているだって? ふざけるな。俺は、俺が望む本当の未来なんて、本当にあるのか?
「一葉、すまない」
俺は小さな声で言う。何か言おうとする一葉に、俺は顔を近づけた。俺の顔は箱を貫通して、一葉の顔が目の前に現れる。俺は一葉と唇を重ねた。長く長く。惜しむように舌を絡め合う。そしてゆっくりと唇を離した。
──俺は箱を開けた。
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