第3話 キャンパスライフ
瞬きをするその間に、俺の目の前には劇場のスクリーンがあった。視界が歪む。ポロポロと涙が溢れてくる。俺は涙を拭った。俺はいつの間にか全裸になっていた。劇場の中には誰もいない。劇場内の掃除をするスタッフさえ見当たらない。
ただ独りだけの空間。それとも、俺が他の人間に見えなかったように、俺に他人が見えていないだけなのか。
俺は箱を開けた。二度。開けてしまった。
手には未だ、その箱が握られていた。
何を間違えたのだろう。幸せだった。妻子も生きていて、新たな子も授かった。けれど、また失った。失ったことに耐えきれず、それをなかったことにした。
やはり俺の心はドクターマンハッタンからは程遠い。
だが、こうして全裸で劇場のスクリーンを見つめていると、心が落ち着いてくるのを感じた。もはや、俺が何故泣いていたのかも曖昧だ。
俺は箱を掲げた。何かを間違えてしまった。間違えてしまったのなら、やり直せば良い。でもどこから? わからない。もっと根本的なところから始めるべきだ。もしかして、俺は友美と出逢うべきではなかったのかもしれない。
俺は箱を開けた。
目の前に広がったのは大学の一室だった。俺はダボダボのジーンズとTシャツを着て、上からジャケットを羽織っている。靴下は履いていなかった。大学生の頃も自分の服装には無頓着だった。とにかく外に出れる格好であれば何でも良かった。それこそ、全裸が許されるなら全裸でも良かったかもしれない。流石にそんなことはないか。
「ねえ。授業、意味わかる?」
俺の隣に座る、黒縁眼鏡の同級生がひそひそと話しかけて来た。
「ああ」
「良かった。あたし、ちんぷんかんぷんなんだよね。後で教えてくれない? 先輩からもらった過去問見せるからさ」
「もちろん」
同級生/同ゼミの
大学の講義を終え、俺と一葉は大学近くのラーメン屋で腹拵えをしてから、図書館へ向かった。大学の講義で教えられたことを彼女の持っていた過去問や参考書も交えて復習し、ようやく彼女が講義の意味を理解した頃には、外はもう暗くなっていた。
「せっかくだから飲んでから帰ろっか」
と言う一葉の言葉に頷き、俺は彼女と共に行きつけの居酒屋に行く。俺自身はそこまで酒に強い方ではなく、酒の席というのもどうも苦手なので、いつもは酒を飲むことは避けているが、彼女とならば別だ。ゼミの研究内容を相談したり、次に観る映画の話をしたり、話題はいくらでもあった。
「そう言えば、一葉と一緒に映画行ったことってないよな」
それでふと、俺はそんなことに気付いた。大学の帰りにこうして飲みに行ったりすることはあれど、元の人生では一葉とは一度も大学周辺以外で遊んだことはなかった筈だ。俺が休日も大学図書館に通うような出不精であったこともあるし、そもそも大学生の頃の俺には他人と映画に行くという選択肢が、俺の中にはなかったからだ。
だが友美と出逢って、彼女と一緒に外に出掛けるようになってからは、新作映画は彼女と観るのが当然になった。映画の帰りにショッピングモールに寄り、お互いの欲しいものを買うのが常だった。
友美とはあまり映画の趣味は合わなかったが、一葉とはいつも好きな映画の話をするのであり、新作映画を観てすぐに語り合うというのも面白いかもしれない。
「今度一緒に行くか?」
俺が尋ねると、一葉は目を丸くして固まった。彼女は右手に握っていたビールジョッキの中身を一気に飲み干した。
「いいね、行こうよ」
「明日なら俺は予定がないが」
「あたしもない。いいね。いいよ。行こう行こう。あ、店員さん。生一つ追加」
俺と一葉は注文した品を一通り食べて腹を満たして、店を後にした。夜も遅いし、明日一緒に映画に行くというなら、お互いしっかり睡眠を取るべきだろう。そう思い、一葉と別れて帰宅しようとした。
「待って」
そんな俺を一葉は引き止めた。
「まだ終電までは時間あるし、家で飲み直そうよ。せっかくだし、観に行く映画の前作も見直さない? あたし、ディスク持ってるから」
「俺は構わないが」
「おっけー」
俺たちは、コンビニによって酒缶とツマミをいくつか買い、一葉の家に来た。彼女の家を訪れるのは初めてではない。彼女の借りているアパートと大学は近い為、図書館が空いてない時や他のゼミ生と飲む時に彼女の部屋を借りることも数えるほどではあるが何度かあった。
一葉の部屋は、彼女の好きな生物学の本や映画のDVDが充実していて、俺にとっても退屈とは程遠い。彼女の誘いを、特に拒む理由もなかった。
明日観る映画の前作を再生し、一葉はビール缶をいっぱい開けた。俺も飲むかと聞かれたので、遠慮なくいただく。
映画を鑑賞している間、二人とも画面を見続けていた。プシュップシュッと何度か隣で一葉が酒缶を開ける音が聞こえたが、俺は彼女程飲めないので、一缶だけに留めた。
映画を観終わって、そろそろ帰り支度をしようと考えた頃合いも、一葉は無口だった。同じソファに座りながら、何度も脚を組み替えている彼女の姿を見て、俺は友美のことを思い出した。不機嫌そうに家に帰ってきた友美が、ただいまの言葉以外一言も発せずに、今の一葉と同じように何度も脚を組み替えて夜遅くまでテレビを観ていたのを俺は横目で見ていた。それで、もう寝る時間だからと俺が立ち上がると友美に思い切り脛を蹴られたのだった。痛かった。一葉も、あの時の友美と似たような表情をしていた。
「なあ、一葉」
「何でしょう」
一葉の顔を改めて見る。何度も酒缶を開けて飲み干していた彼女の目線は明後日の方角を見ていて、俺と目が合わない。俺は台所から水を汲んできて、一葉に渡した。
「ありがとう」
一葉は小さくそう言うと、ゆっくりと水を飲む。
俺は水を飲み終わり、彼女が俯きながら自分の膝の上においた手の甲に、俺の手を重ねた。
一瞬、彼女はピクリと肩を振るわせたが、俺の手を振り払おうとはしなかった。
「一葉」
「何でしょう」
「夜も遅いし、泊まっていいか」
その言葉に、一葉が顔を上げる。ようやく一葉の目が俺との目と合う。
俺は彼女の肩を抱いた。彼女はソファの上に両足を乗せて、俺に向き合うように座った。俺は小さく息を吐いて、一葉の唇に顔を近づける。彼女もまた同じように顔を近づけて、唇を合わせた。俺は一葉の背中を抱いて、彼女のボサボサの髪の毛を触る。そしてもう一度唇を重ねて、舌を絡めた。
酒の味と匂いがした。
(続く)
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