第2話 二度目の人生
奏恵は交通事故にあったのは保育園からの帰りだった。お迎えに行っていた妻の
友美と奏恵がいなくなって俺の心に空いた穴は研究に没頭するくらいでなくなるようなものではなかったが、俺はその穴を心の中で必死に梱包して蓋をした。そうか、思えば俺が不感症なのは身体を失ったからではなかったのかもしれなかった。あの時から俺は、心という箱を
「パパ?」
箱の中で奏恵が目を擦り、起き上がる。俺はこの身体になって初めて焦った。全裸のままでは格好がつかない。だが、俺はいつの間にやら服を着ていた。ボロボロの白衣。研究室で使わなくなった白衣を、綺麗に洗濯してから部屋着として使うのは、俺の癖だった。
奏恵が寝ていたのも箱の中などではなく、彼女のお気に入りのベッドだ。
「ああ、パパだよ」
俺の目から、涙が流れた。この涙は、決して分解前の俺の心のトレースなんかではなかった。
俺は奏恵を抱き上げると、リビングへ向かった。リビングのソファでは友美が寝ている。また、朝飯を作ろうと起き上がったは良いが、二度寝したのだろう。俺は友美に毛布をかけてやり、簡単に目玉焼きとウインナーを焼いた。奏恵にはハムとチーズを挟んだトーストを一緒に渡す。
「あ、ごめん。起こしてくれたら良かったのに」
「無理しなくて良い」
「何それ。そんなこと言うなんて珍しい」
俺は苦笑した。確かに、昔の俺はもっと冷淡な朴念仁だったかもしれない。だが、俺は二人がいなくなってからも色々と学んだんだ。
奏恵と友美は俺の作った朝飯を食べて、保育園に向かった。俺は白衣を脱ぎ、仕事に向かう為にスーツを着る。よれよれのスーツはこれでも友美が綺麗に整えてくれたものだ。新しいのを買えば良いのにと友美は言うが、俺はこれが気に入っているのだ。そもそも、研究職がスーツを着る必要はないと思っているのにこれを着るのは、職場がそうしろと言うからなので容姿を整えることにさしたる拘りもない。
だが、今度の休みに新しいスーツを買いに行くのも良いかもしれない。そのついでに奏恵と友美の好きなものでも食べに行くと良い。きっと、今度こそうまくやれる。
その日から、友美が寝ている時は朝食を俺が作るようになり、急ぎの仕事でない時は俺が奏恵を保育園に送り迎えもするようになった。以前は友美が帰ってくるのは夕方で、俺が帰るのは朝になることが多かったから、生活もすれ違いがちだったが、仕事の時間を調整してできるだけ同じ時間に起きて、同じ時間に寝れるようにした。以前よりも友美との会話が増えた。
奏恵もすくすく成長した。奏恵が小学生に入る頃には弟の
陽音は小さい頃から俺の書斎にある本に興味深々で、よく俺の本棚から大人でも読むのに苦労するような本を持っていった。内容は俺から見てもあまりよくわかっていないようだったが、何が書かれている本なのかくらいの理解は、五歳になる頃にはなんとなくできるようになっていた。大人になったらパパと一緒に仕事をしたいなんて言う陽音に俺は微笑み、そうなったら嬉しいな、と頭を撫でた。
中学生を迎えた奏恵は、友美に似て活発な女の子になった。学校では生徒会をやっているらしい。そんなところもお前似だと友美を揶揄ったら、照れ隠しにか脛を蹴られた。痛い、と俺が言うと、友美は楽しそうに笑った。
奏恵が高校二年生になってすぐの頃、仕事から帰ったら友美が神妙な面持ちでリビングのソファに座っていた。何かあったのか、と軽い気持ちで俺が尋ねると、友美はすぐさま本題を切り出した。奏恵のお腹の中に赤ちゃんがいるのだと言う。久しぶりに、頭をガツンと殴られたような衝撃を味わった。相手は二歳歳上の大学生だと言う。ふざけるな。俺は翌日、その男のことを殴りに行った。男はその拳を甘んじて受け入れた。自分の責任だと頭を下げたそいつの顔に、それ以上拳を振り上げることが俺には出来なかった。
こうなった以上は、産まれて来る子を精一杯育てると、青臭い言葉を口にした。それで男を許したわけではないが、俺はその言葉を信じることにした。奏恵の妊娠の事実を聞かされてから、一ヶ月ほど経ったある日、研究室にいた俺に病院から連絡があった。奏恵が病院に運ばれたらしい。俺は急いで残りの実験を部下に引き継ぎ、病院へ向かった。流産だった。奏恵の目は、あの日、俺が二人を失ったあの日に鏡で見た自分のように虚ろになっていた。友美が必死で奏恵を慰めていたが、奏恵にその言葉は届いていないようだった。
病院から退院した翌日、奏恵は家からいなくなった。俺と友美が寝ている夜中に外に抜け出したようだった。捜索願を出して半年後、遠くの山で奏恵と奏恵を妊娠させた男のものと思われる死体が発見された。
俺は叫んだ。友美はそれでもそんな俺の背をさすってくれた。俺なんかよりも辛いだろうに。俺は二度目だ。ショックには慣れている。だから分かる。この苦しみは、独りで耐えられるものじゃない。俺も友美の背中をさすった。
箱があった。
奏恵の部屋にあった遺品を片付けようとしたら、彼女の布団の上に握り拳くらいの小さな箱があった。俺はその箱を知っていた。そうだ。俺が今感じているこの苦しみも、元々はなかったものだ。味わわなくても良かったものだ。
俺は箱を開けた。
(続く)
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