ニャルコフスキーのクソ筺

宮塚恵一

第1話 シュレディンガーの猫

 シュレディンガーの猫、という思考実験がある。

 今更紹介されるまでなく皆お馴染み、というやつだ。量子力学における確率解釈問題に対して「今の量子力学理論は不完全だ」ということを示す為に物理学者シュレディンガーが投げかけた思考実験だが、原子の放射線崩壊確率を含めた詳しい内容や、シュレディンガー自身が考案した方程式を適用した実験の意図なんてのはこの際、どうでもいい。


 おそらく、多くの人は単純にこの実験を「オンオフどちらになるかわからない毒ガスを出すスイッチと繋がった箱がある」「その箱の中にいる猫は箱を開けるまで生きているか死んでいるかわからない」「箱を開けた時に猫が生きているか死んでいるか確定するのだ」というガバガバ解釈で理解していると思う。そしてそれで良い。


 俺の目の前にあるのはである。


 シュレディンガーの猫が入った箱。──いや、それは比喩だ。

 開けてみるまで、何が起こるかわからない箱だ。この箱は、全ての可能性に繋がっている。


 ニャルコフスキーと名乗る老紳士はそう言って、俺にこれを渡した。ふざけやがる。だが俺には分かる。この箱は本物だ。


 そして俺にこれが手渡された理由もわかっている。俺は今、人間をやめつつある。

 某研究室で行われた瞬間移動実験、それに失敗して、俺の身体は原子レベルに分解された。


 だが、俺の意識は死ななかった。まるでアメコミのドクターマンハッタンだ。生憎、俺の意識はあのヒーローのように達観はしなかった。


 ──ただ、俺は世界から放り出されたようだ。


 世界の誰に干渉することも困難だった。俺は確かに存在している。気付けば分解された筈の身体も再構築され、身体を取り戻しても、まるで透明人間か幽霊のように、誰も俺を認識しない。いや、実際にそのどちらかなのかもしれない。


 試しに全裸になってみた。


 涼しい風が股間を通る。寒さは感じなかった。これも俺の身体が再構築された故か。


 だが、全裸の俺を誰も見なかった。スクランブル交差点を全裸で走り抜けても、女湯に潜入してみても、誰も俺を見ない。女湯に入ってみたのは分解前の俺の欲求だと思うが、そんなことをしてみたところで何も感じるものはなく、仕方なく俺はそのままでいることにした。誰も気にしない上に寒さも感じない。何なら痛みも疲れも感じないので、俺は全裸でいることが当たり前になった。そういえばドクターマンハッタンも人間性を失っていくことで常に全裸になっていた。俺にわかりやすいスーパーパワーは発現していないが、その気持ちはわかるかもしれないと思った。


 そんな風に何を感じることなく、そういえば分解前に気になっていた映画の公開が始まっていたな、と思いスマホを使って鑑賞券を買った。

 生身の人間には認識されないが、電子機器の利用は何故か問題なくできるようだった。


 映画を観ても、面白さもつまらなさも感じなかった。ただ、映像が流れていく。気付けば映画は終わっていた。何を得ることも失うこともない時間だった。それに対して虚しさという感情すらない。


 俺は映画を観終わり、しばらく席に座っていた。これも分解前の習慣だった。他の鑑賞客がいなくなって、自分一人になったら最後に出ていく。

 だが、俺以外にも同じように座っている客がいた。その客は俺を見る。いや、その時は俺を見たとは思わなかった。たまたま俺の方に顔を向けただけだ。そう思っていたら、その客が口を開いた。


「そこの方、どうも孤独を持て余しているようだ。いや、まだそうではないようだが、これからそうなるでしょう。そしてそれをあなたもわかっている」


 その言葉が俺に向けられていると分かるまで、時間がかかった。何せ、もう何日も他者に認識されない全裸生活を続けていた。生活と呼べるようなものでもない。ただ、分解前の自分をトレースするだけだ。食事をしなくてもこの身体は維持できるようだったし、排泄も必要ない。そんな毎日を過ごしている中で、始めて俺に話しかけてきたのがそいつだった。


「私、ニャルコフスキーと申します。あなたはご自分を一人とお思いのようだが、そうではない。いえ、確かにこの世界にはあなたお一人なのかもしれませんが」


「俺が見えるのか」


 俺はそいつに尋ねる。そいつは銀髪の紳士だった。スーツ姿で、俺のように全裸ではない。


「見えますとも。そんなあなたにお渡ししたいものがあります」


 ニャルコフスキーと名乗った紳士は、そこで俺にあの箱を渡したのだ。


「箱です。この箱は全ての可能性に繋がっています。いえ、箱の形である必要はないのです。車でもトラックでも何でも良い。ただ、あなたにはそちらの方がわかりやすいから箱の形をしているだけ」


 ニャルコフスキーは皆まで説明しなかったが、俺にはこの老紳士の言いたいことがわかった。


「つまり、この箱に入っているのはシュレディンガーの猫だと」

「さようで。それではご武運を」


 ニャルコフスキーはそれだけ言うと、いつの間にやら俺の目の前から消えた。


 俺は箱を見た。あの紳士はおそらく、俺のような存在に同じことをしている。そういう概念だ。ニャルコフスキーとかいうふざけた名前も、俺の脳がそう認識しているだけに過ぎないのだろう。


 そして、俺のような存在はこの箱を開けるのだ。そして箱を開けて、好きな世界へと向かう。


 俺は箱を開けた。箱の中には、小さな子どもが入っていた。


奏恵かなえ


  俺は思わずつぶやいた。その子どもは、何年も前に死んだはずの我が子であった。



(続く)

 

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