第5話 箱と宇宙

「覚悟は固めたな」


 俺の隣で、バッファローマンが肩を組んだ。

 獣人合成実験に失敗し、顔が水牛の如くなった男バッファローマンは俺の相棒だ。俺と一緒に無敵のヒーローチームとして、日本国の実権を消滅させてこの列島を獣人合成の実験場と目論む箱木はこぎ博士──通称ミスターボックス──を止める為にここにいる。


「勿論だ」


 頷く俺にサムズアップをして、バッファローマンは立ち上がる。箱木博士が拠点にしている富士山地下の研究施設の破壊が、俺達のミッションである。


「なあ相棒、これが終わったら──」


 バッファローマンの声は掻き消えた。気付けば、彼の自慢の水牛の頭が破裂している。


「遅かった。全てが遅かったのだ」


 俺の背後から、箱木博士が姿を現した。だが、そこにいるのは俺の知る箱木博士ではなかった。獅子の頭を持ち、両腕にガトリングガンを装着した箱木博士は、その銃口を俺に向ける。


 ──俺は箱を開けた。


 次に俺が放り込まれたのは、色彩の欠く世界だった。全ての色が白黒モノクロで、それでも何も気にせずに人々が往来する。これは俺だけの視覚の問題ではなく、この世界に蔓延したウイルスの為に、人々が色の概念を奪われてから既に半世紀経ったからだと俺は知っている。荒唐無稽な世界を旅し続けるのは、まるで映画の中で多世界マルチヴァースを巡るミシェル・ヨーのようで、俺はドクターマンハッタンではなく、冴えない一人の男に過ぎないことを今更のように思い出して笑った。

 誰がが後ろから俺にぶつかった。その瞬間、鋭い痛みが俺を襲う。背中を刺されていた。どろりとした鼠色の血が流れる。

 地面に倒れた俺はと、刃物を持った男を見て、色彩の欠けた世界に悲鳴が轟く。

 倒れた俺の目の前に、箱が現れる。


 ──俺は箱を開けた。


 箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける箱を開ける──。


「おや」


 箱を開けた俺の前に、庭で優雅に紅茶を呑む老人が現れた。ニャルコフスキー。忘れるものか。俺に箱を渡した老人だ。


「あなたはとうに満足してくれたものかと思ったが」

「満足だと? 冗談じゃない」


 俺は老人の前にある丸テーブルに、拳を打ち付けた。


「ある世界では娘が幸せになったかと思えば母が通り魔に刺された。ある世界では俺が天涯孤独の身を貫く代わりに誰もが不幸になった。ある世界では俺が世界に蔓延するウイルスの特効薬を発明したが、家族はその特効薬を独占しようとする組織に殺された。ある世界では──」


 言葉を続けようとする俺の唇にニャルコフスキーが指を添える。


「冷静になれ。あなたも愚かではない筈だ。よくく考えてみなさい。あなたは、お前が幸福であることだけを考えればそれで良かったのだ。あなたがどれだけ繰り返そうと、世界の全ては背負えない。どこかで妥協しなくてはならない。世界の貧困をなくしても争いは起こるだろう。争いを収めても、盗人は現れるだろう。盗人を捕まえても、どこかで人は事故に遭い、または殺され、または寿命でいずれ死ぬ」


「それは──」


 わかっている。わかっていることだ。だが、諦め切れないではないか。俺の手元には、箱がある。全ての可能性に繋がる箱。であれば、俺の大事なものを全て救える道があっても良いはずだ。


「あなたの大事なものとは何だ? 家族、恋人、友人、どこまで広げる? 広げれば広げるほどに取り零す。だが、あなたは満足できないでいる。何故か」

「俺は、俺は──」


 ニャルコフスキーの言葉を受け、俺の脳裏に浮かんだのは笑顔の奏恵の友美だった。俺が最初に後悔していたのは間違いなく、これだ。

 俺は、見て見ぬふりをしたくなかった。何故なら、二人が死んだのは俺が二人を見て見ぬふりをしたからだ。そんなことに俺は二人が死ぬまで、気付いていなかった。


「たとえばこれはどうだ? 世界中の人々全てが箱を持つ。自分のやり直したいこと、気に入らないこと、後悔していることがあれば箱を開ける。そして皆が箱の存在を知れば、他人に頓着することもなく、己の幸福を追求することができるだろう」

「だが、きっと誰も満足しないぞ。それに他人に頓着しないということは、その分不幸も増える。やり直したいという欲求もまた増える。そんな欲求の塊は、誰も背負えない」

「まあそもそもそんなことは実現不可能だ。そんなもの、宇宙がいくつあっても足りない。どこかで箱を開けるエネルギーが枯渇して、全てが漂白されるのが先か、それとも箱を開け続けた人々がその虚無に耐え切れずに廃人となるのが先かの問題にはなるかもしれないがね」

「ニャルコフスキー、お前は神か」と

「神がこんな享楽的であれば、人々もいささか楽だったと思うね」


 ニャルコフスキーは飲み終えたカップにティーポットを傾けて紅茶を注ぐ。

 そのままぐいっと一飲みし、空のカップを丸テーブルに置いた。


「私にはどうでもいいことだ。ほら、次の世界に行くんだろう」


 ニャルコフスキーは空を指し示す。何もなかったはずの空間に、箱が現れた。これは俺の心象風景に過ぎないのだろう。ニャルコフスキーが本物かどうかも怪しい。箱の重みに耐えきれない俺が創り出した幻かもしれないが、あの老人なら人の頭の中を覗き込むこともわけはなさそうだ。それこそ、どちらでも構わない。


 ――俺は箱を開けた。


「――パパ?」

 ベッドの上で奏恵が目を擦り、起き上がる。


「ああ、パパだよ」

 俺は奏恵の頭を優しく撫でた。


 俺は奏恵を抱き上げると、リビングへ向かった。

 リビングのソファでは友美が寝ている。また、朝飯を作ろうと起き上がったは良いが、二度寝したのだろう。俺は友美に毛布をかけてやる。俺はスマホの中にある連絡先を探した。そこには当然、一葉への連絡先もある。

 最初の人生を思い出す。少なくとも一葉の幸せは、きっと俺でなくてもいい。


 俺はスマホを閉じて、台所に立った。


「あ、ごめん。起こしてくれたら良かったのに」

 台所で料理をする俺に友美が言った。友美はむくりと起き上がってきて、俺の背後に立った。


「無理しなくて良い」

「何それ。そんなこと言うなんて珍しい」


 わざとらしく驚く友美に俺は苦笑した。俺にできることはいくらでもある。二人だけじゃない。きっと、どんなことがあってもそこで諦めてはいけない。


「あ」


 熱々のウインナーが間違ってフライパンから滑り落ちる。


「アチッ」


 跳ねた油が友美に手にかかった。俺は慌てて布巾を水で濡らして、友美の手にあてる。


「そのまま」


 俺は友美の手を取って、流し台まで連れていく。冷たい水を流して、友美の手を冷やした。


「ごめん。ありがとう」

「いや、こっちこそ」


 流れる水の中に、箱が見えた。どんな些細な失敗でも、どんな小さな引っかかりでも、この箱を開ければやり直せる。やり直してきた。


 俺は――。

 



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